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このHPは、「生駒の神話研究会」(連絡先)の公式HPです。

右のカテゴリー(これが表示されない時⇒ここをクリック)よりお入り下さい。通読される場合は下へお進みください(下へ進めない時⇒ここをクリック)。

書き足しを重ねています。その際、新しい記載と古い記載との齟齬は修正するように努めていますが、記事の量の増加により、それが出来ていない場合もあるかと思いますがご寛容ください。

このHPまとめの記事

 ~このHPは書き足すうちに大量の情報が載るものとなってしまいました。すべての情報をお読みいただくことは時間がかかります。お時間のない方にもお読みいただきたいものとしてこのまとめの記事を記載いたしました。~

)「生駒の神話」とは、生駒を舞台にした神話です。生駒を舞台にした神話には、いわゆる「神武東征」と呼ばれているものがありますが、日本書紀に書かれたその神話の内容の概略は、次の通りです。

 九州にいたイワレヒコは、ニギハヤヒが治めている内うちつ国(生駒山の向こうにある日本の中心/現在の生駒から奈良盆地)を奪うために、瀬戸内海を東に向かい難波の海の東海岸に上陸して生駒山を越えようとした。しかし、ニギハヤヒの盟友であるナガスネヒコによって撃退された。東に向かって進軍したのは太陽に逆らうことになったので敗退したと考え、迂回して太陽を背にして侵攻せんとした。迂回の先々で、先住民を殺しながら、うちつ国に到着し、再度ナガスネヒコと会い見えたが、今度も苦戦した。そのとき、金色の鵄が突然に飛来して閃光を放ってナガスネヒコをして戦わさせなくし、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺害して国を譲ったので、イワレヒコは内つ国を手に入れ、神武天皇として即位できた。

 この神話は、一見するだけだと、次のように疑問の多いものとなっています。

  ①古代の日本人は、他者が暮らしている国をかってに奪うことを肯定していたのか。

  ②古代の日本人は、 先住民の生存権を認めていなかったのか。

  ③古代の日本人は、 盟友を裏切る行為を肯定していたのか。

  ④古代の日本人は、 自分や愛すべきもの(この場合は自分が暮らす国の人々)の尊厳を守ろうとしない腰抜けを肯定していたのか。

 上記の疑問は、古代の日本人は、他者の尊厳を認めない、また、自らの尊厳も守ろうとしない人々だったのか、ということを突き付けるものとなっています。この疑問を放置すれば、古代の日本人、ひいては、今日の日本人までもが人間の尊厳を認めない、そこまでは言い過ぎとすれば、軽んじる民族となってしまいます。

 そのことを意識しながら、生駒の神話に関する書物を読んでいたとき、次の2つのことに出会いました。

  生駒市誌の一文「色の鵄は、本来は長髄彦(また登美彦)の側のトーテム(神)ではなかったか。」(ご参照

  これらの論者は、ただ一点重要なことを見逃しているのです。神武東征の際に河内の生駒山麓で頑強に抵抗した先住民とは一体何者であったのか、ということです。この点を不問にしているため、さまざまな重要な問題が不明のままに歴史の闇に葬りさられてしまっている。」<谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」 より>(ご参照

 上の2つは、 外国向けに日本という国の正統性を主張するためにつくられた日本書紀の作者の作為(「金色の鵄はナガスネヒコの守護神ではない」「ナガスネヒコは賊に過ぎない」とする)を指摘しています。

 上の①と②を頭に置きながら、右のカテゴリー「03 参考文献等」「06 資料」に掲載のものを読み調べることで、記紀等によって、いわゆる「神武東征」へと捏造されて<>伝えられてきた元の神話(これが、生駒の神話)を読み解き、その骨格を復元し、次の生駒の神話のストーリーの骨子としてまとめました。なお、この作業は、生駒の神話(生駒を舞台とする日本神話)を日本人のアイデンティティとして再生するものです(ご参照)。

記紀の作為はなぜおこなわれたか?

記紀に書かれた神話は「ねつ造された生駒神話」「大和王権の権力に都合の良いように作為された神話

 ①生駒の神話のストーリー(骨子) (新情報を反映した改訂はなく、作成当時のまま

 ②①の【解説付版】 
新情報を反映した改訂を随時に行なっております。そのため、「生駒の神話」のWEBページの他の箇所と整合性のとれない記載がある場合は、このページの記載が最新のものであります。)←現在、このページが当HPの主柱となっています。

 ③①に書き直す前のものを、生駒検定<全国版>
の第1問の問題文としています⇒そのWEB版その文書版.pdf (新情報を反映した改訂はなく、作成当時のまま

 上のストーリーの骨子は、これらの立脚点)に立ち、これらの留意点を踏まえこれらの資料を根拠に設定した「生駒の神話」の枠組み(パラダイム) に沿って、打ち出したものです。打ち出す際に作成した、ストーリーの青写真が「生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)<概説>.pdf(新情報を反映した改訂はなく、作成当時のまま)です。

   )立脚点の1つが、邪馬〇国の名称・所在地論争に終止符を打つ論である 邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征

)ストーリーの骨子の【解説付版】をお読みいただければお分かりのように、捏造される前の元の神話(生駒の神話)は、上記の疑問を抱かせるものとは全く反対の内容をもつ神話で、当時の未来(つまり今日)に向かって、次のようなメッセージを発している神話です。

 ①生駒の神話と現在  

 ②<ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?>これが、日本神話の最大の謎であり、その答が本当の生駒の神話の真意(元の生駒の神話の内容)であり、現代・未来への最大のメッセージとなっています。

金の鵄」が飛び立った生駒は、非戦・避戦の精神の発祥の地といえます。 

)記紀神話は、神武東征のように特定の人・勢力が作った(捏造した)ものですが、「生駒の神話」は「特定の人・勢力」ではなく「人々」がつくったものでした。それでは、なぜ人々はそれを作ったのでしょうか。

「生駒の神話」(という物語)はなぜつくられたのか。

 

その他、このHP各所に掲載の記事の中で、できればお読みいただきたい記事

生駒の神話は、

 ①縄文から弥生への交代期のショックで発生した長髄彦伝承を基にするもの(ご参照.pdf)。

 ②縄文から弥生への移行期における里山の誕生の過程を反映したもの(ご参照.pdf )。

 戦い忌避神話であり、戦い忌避伝承である生駒伝承と符号・共鳴しており、「縁起の法」の神話化であるとも考えられる<縁起の法ご参照>。

生駒の神話のストーリーの骨子を打ち出すために参考にした資料のうち、最低限、目を通していただきたい資料

 ①生駒の地理、古道、古蹟、地名の位置がわかる地図、地形が分かる写真

 ②生駒市誌  富雄町史  先代旧事本紀  古史古伝

 ③村井康彦『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』.pdfこの書物が画期をなす理由・この書物を読むための基礎知識.pdf紹介記事

 ④嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf→右図が表紙07

   下記のような立ち位置で著されたことにより、この書物もまた記紀神話を読み解く上で画期をなすものとなっています。

   立ち位置:「神話や由緒には創作や事実を脚色したものが多く、事実がそのまま記されているわけではないのですが、全くの作り話というわけでもなく、何らかの事実を元に再編したり都合よく脚色したりして創られているようですので、その中に含まれている「事実の欠片」と思われるものを拾い出し、古代の地形地域の伝承地域資料に残されている事実や世界の歴史などと照らし合わせてみると、『納得できなかった教科書の歴史』とは全く違う歴史が納得できる形で表れてくるのです。」(14.10.17のブログより)

生駒の神話の舞台について・・・生駒の山生駒山地矢田丘陵(平群の山)西之京丘陵(京阪名丘陵・跡見の岳)豊秋津洲とは、まだ島・半島であったときの生駒のこと

<生駒市「神話と里山の都市」構想を策定・提案・広報している大事なことは皆で考え決めよう会と連携協力しています。>

 

補足

 〇生駒の神話は、敵を仲間にすることで敵を滅ぼす(殺戮せずして勝利する/平和的に争いを解決する)ことの大切さを教えています。

 

 

 

「生駒の神話」のストーリー(骨子)【解説付版】   <初版 2020.4/随時改訂>   

 【解説付版】でない方(新情報を反映した改訂はなく、作成当時のまま)

お断り:このページは、新情報を反映した改訂を随時に行なっております。そのため、「生駒の神話」のWEBページの他の箇所と整合性のとれない記載がある場合は、このページの記載が最新のものであります。

(図版はクリックで拡大できます。)

生駒の神話が生まれた時代とその舞台

 ①この神話が生まれた時代は、弥生時代、つまり、海の向こうからやってきた渡来人がもたらした水田耕作が西から東に伝 播した、縄文(狩猟採集漁労)から弥生(水田耕作が主業で狩猟採集漁労は副業)への移行期。

04  ② その舞台⇒右地図ご参照

   ・大阪(河内)平野・・・弥生時代の中頃(2000年前ごろ)までまだ海(河内湾)でした。淀川と大和川が土砂を運ぶことで潟化(外海との隔離化)が進み(河内潟)、弥生時代の後期の1700年前ごろにはまだ海と繋がる湖(河内湖)となり、その後も湿地化・乾地化が徐々に進行し、江戸時代には湖は池(深野池ふこうのいけ)となりました(河内湾・河内潟・河内湖 ご参照)。

   ・奈良盆地・・・大阪(河内)平野が河内湾であったころは奈良盆地は海と繋がる奈良湖(海水湖)でしたが、大阪(河内)平野の湿地化・乾地化に歩調を合わせて、海水湖→海ときり切り離された淡水湖→湿原盆地→乾地盆地と姿を変えていきました(奈良湖ご参照)。

   ・日本神話の「国生み神話」においてイザナギ・イザナミが産んだ豊秋津洲とは生駒のこと(豊秋津洲とは、まだ島・半島であったときの生駒のことご参照)で、ここが生駒の神話の舞台となりました。

<(記紀により作り変えられる前の)「生駒の神話」の概要

 「あとから海の向こうからやってきた者たち」は、「以前に海の向こうからやってきて元から住んでいた者たちと共に暮らしていた者たち」とは違って狂暴であった。「元から住んでいた者たち」は侵入せんとした狂暴なる者たちをいったんは「殺戮」することなく撃退した。しかし、狂暴なるものは、再度、侵入せんとした。元から住んでいた者たちは動揺し対応をめぐり分裂した。彼らにとって弓矢は命を得るものであって命を奪うものではなく武器はなかったし、そもそも「殺戮」ということを知らない人々であったが、狂暴なるものを前にして「殺戮」というものを知り、それにより狂暴なる者たちを撃退しようと主張する男たちが現れた。もちろんそれに反対しあくまで「殺戮」 することなく撃退しようと主張する者も多くいたが、結局、男たちは、命をいただくものとして神<下に(注)>から授かった弓矢を命を奪うものに変質させて自ら軍隊となり、狂暴なる者たちを「殺戮」によって殲滅せんとし、矢を一斉に放とうとした。が、その瞬間、すさまじい閃光と暴風が、殲滅せんとした側の男たち全員を空に舞い上げ地面にたたきつけた。それを見た狂暴なる者たちも恐れおののいた。双方の男たちは「殺戮」することは罪深いものであり、神はそれを決して許さないということを思い知らされた。その後、元から住んでいた者たちと以前に海の向こうからやってきていた者たちは、狂暴なる男たちと、彼らが連れてきていた女たちと子どもたちを迎い入れ、共に皆が平和に暮らしていった。

(注)この場合の神は、(民俗学の)神・・・生駒神話の小辞典ご参照

 

「生駒の神話」のストーリー(骨子) 

~ <>が解説部分 ~  

海の向こうからやってきて日向(ひむか/現宮崎県)の国を治めていたイワレ彦<※1>は、九州を征したのち、内つ国(うちつくに/国の中心/生駒山の東側/現在の生駒~奈良盆地周辺)を征服せんと瀬戸内海を東進して難波(なにわ/現77_20200121170801 大阪平野右写真/大阪平野は、生駒の神話が生まれた弥生時代に、海湾から海と繋がる湖へ)にいたり、そこより生駒山を越えようとした<※2>。

※1-1

神話のイワレヒコは、歴史的には「遅い時期にやって来た渡来人」

※1-2

  神話では、イワレヒコは、日向に「天あま降り(降臨)」してきたニニギノミコトという神のひ孫となっているが、神話で「天(あま)から降りてきた」とは、歴史的には「海(あま)の向こうから渡来してきた」こと。神話を歴史であるかのように教えさせられていた戦前の小学校では、教師は生徒から「天から降りるって落っこちはしませんか」と質問されて答えに窮したという(ご参照.jpg)。

       神話系図 天照大神天忍穂耳尊アメノオシホミミノミコト瓊瓊杵尊ニニギノミコト 火折尊ホオリノミコト(彦火火出見尊ヒコホホデミノミコト鸕鶿草葺不合ウガヤフキアエズノミコトイワレヒコ(実名は、火折尊の別名と同じ彦火火出見尊/即位して神武天皇

※2

  神話の「神武東遷」は、歴史的には「邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征に記載されている出来事。

このとき、内つ国ではナガスネ彦<※1>が、イワレヒコより先に海の向こうから内つ国にやってきたニギハヤヒ<※2>と共に、戦う(人間を殺す)ことのない平和なクニづくりをしており、狩猟採集漁労に生きるナガスネヒコたちは、武器でない狩猟用の弓矢しか持たなかったが、侵攻軍を撃退するため、雨のように矢を放った。侵攻軍を射抜くためではなく、前進してくる侵攻軍の眼前に天から降ってくる矢で鉄壁の壁をつくることで、侵攻を許さない意思を突きつけ、侵攻を阻むために。ナガスネヒコたちは、投石や落岩等も駆使して、侵攻軍を殺すことなく撃退した(クサカの戦い)<※3>。

※1

神話のナガスネヒコは、歴史的には「列島先住民(縄文人)」

このページ<日本列島先住民族=狩猟採集民族=縄文人> についてご参照   縄文と弥生ご参照 

※2-1

神話のニギハヤヒは、歴史的には「早い時期にやって来た渡来人」。

  この渡来人たちは、水田耕作民であり、狩猟採集漁労民の列島先住民(縄文人)と衝突したものの、「遅い時期にやって来た渡来人」 とは異なって、住み分け(狩猟採集漁労の妨げにならない範囲で水田耕作をさせてほしいこと)と友好を懇願するという態度を崩さなかったため、衝突は戦いにまで発展せず、両者は住み分け・共存・融和してクニづくりをしていった。かかる歴史を神話は、「イワレヒコの妹のミカシキヤ姫とニギハヤヒは婚姻しウマシマジを産んだ」と物語っています。

次のように図式化することができます(「国家」というものが鍵)。

   先発渡来人(ニギハヤヒ)=純粋に住処を求めて渡来→穏やか→話し合いで共存

   後発渡来人(イワレヒコ)=国家(強制力で統治)づくりに渡来→凶暴→まず衝突

   

※2-2

神話では、イワレ彦は東征開始前に東征する動機を次のように語っています。

  (海の神である)塩土の翁(しおつちのおじ)に聞くと「東の方に美(うま)し(良い)土地がある。青い山が四方を囲んでいる。その中に天磐船(あめのいわふね)に乗って飛び降って来た者がいる」とのこと。思うに、その土地は大業を広め、天下を治めるのち良い場所だろう。きっとこの国の中心だろう。その飛び降って来た者とは饒速日(ニギハヤヒ)というものだろう。その土地に行って、都をつくろうではないか。

  これは、「遅い時期にやって来た渡来人」が列島の中心であった内つ国に進出しようとする前に、すでに「早い時期にやって来た渡来人」は内つ国に住まいしていたことを物語っています。

※2-3

  なお、ニギハヤヒは磐船に乗って哮峰たけるがみねご参照)に飛び降り、〔鳥見とみ〕白庭山はくていざんご参照)に遷ったとの神話もあります。これは弥生時代の早い時期にはまだ、天野川上流まで内海(ないかい)となっており(これは、海の神を祀る住吉神社<ご参照>が天野川源流に建立されていることでも分かります)、「早い時期にやって来た渡来人」が、船に乗って天野川上流までやってきて、白庭山の候補地である住吉神社付近に上陸したことを物語っています。  

※3

  「殺戮」 は悪というより不可能なものというのが縄文人の本然の性であった(このページの「縄文人の本然の性とは何か」ご参照)ため、ナガスネ彦は侵攻軍を撃退するためには「戦わず(「殺戮」せず)して勝つ」ことをしました。これは、前6~5世紀の孫子の「戦わずして勝つ」兵法(1つ目は外交交渉、2つ目は智略活動、3つ目は相手の戦意を喪失させる構え)の3つ目の兵法であったといえます。   

  ただ、イワレヒコの兄である五瀬命(いつせのみこと)は、流れ矢に当たってひじを負傷した が、他者の幸せを祈って執着を絶つことで回復力を高めることをせず、逆に、他者に報復するとの執着を捨てなかったことで体力を低下させ、重傷ではない傷が原因となってのちに死亡した。

   五瀬命のエピソード

  ①五瀬命 は「ナガスネ彦の放った矢に当たって壮絶な死を遂げられた」とした方が、侵攻軍の報復心を高めることになるのに、わざわざ、「(司令官でありながら)流れ矢に当たってひじを負傷(するというお粗末な行為を)し、(更にお粗末なことに傷の手当てが不十分だったので、重傷ではない傷が原因で)1か月後に死亡し(て報復できなかったというお粗末な結果に終わっ)た」というような侵攻軍の士気を低下させる、または、侵攻軍がお粗末な軍隊であることを印象付けるようなエピソードが挿入されていることが、書紀の謎の1つとなっていますが、その答えは、「日本書紀」は「非戦の書」でもあるからです。なお、五瀬命は「放った矢」ではなくわざわざ「流れ矢」に当たったとなっているのは、ナガスネ彦軍の放った矢は侵攻軍を射抜くためのものではなかったことを確認するためです。

  ➁このエピソードは、「他者の幸せを願うことで自己の執着を絶つことをしないこと」または「執着(この場合は、他者に報復することに執着)を保持すること」は「心身の力を低下させる」または「生きることの苦しみから自己を解放させ得ない」ことを教えています。このことは、生駒の神話が、前5世紀前後にブッダが唱えた縁起の法の影響を受けているのではないかとの指摘がある理由の1つとなっています。      

  ③すべての自然に神は宿り、人間に恵みを授けてくれる。しかし、自然=神はときに人間にとって他者となって怒り、災難=祟りをももたらす。それを鎮めるためにも「他者への感謝」を捧げなければならない。「感謝することで災難を回避する」というのが縄文人の発想である。この発想の大切さを後世に伝えるために、このエピソードは、わざわざ神話に挿入された。

内つ国征服に執着する侵攻軍は、太陽に向かって進んだので撃退された<>と思い、迂回して南東方向から太陽を背に内つ国を攻撃しようと考えた。

   <>生駒の神話は何らかの 太陽信仰とのかかわりがあったとされています。

侵攻軍は迂回ルートを進む途上、その先々で、食糧・寝所・休養所等を得るために、ナガスネヒコたちと同様にこれまで戦う(人間を殺す)ことのない世界に生きてきて戦うということなど知らなかった人々<>を一方的な攻撃や謀略によって殺戮(食べるため以外の目的で殺すこと)した。

  >神話上のこれらの人々も、歴史的にはナガスネヒコたちと同じ「列島先住民(縄文人)」。彼らはなぜ団結して戦わなかったのかという疑問も湧きますが、そもそも戦うという概念がなかったということの他に、これまで外敵と戦うことがなかったので、団結して生きていくという概念はあったものの、団結して戦う必要がなかったため、その概念をもっていなかったのです。このことも神話は伝えています。  

侵攻軍が殺戮しているという知らせを受けて怒りをたぎらせたナガスネヒコたちは、再び侵攻軍と会い見まえた時(トミの戦い)、侵攻軍をせん滅(殺戮)せんとして、狩猟(食べるために動物の命をいただくこと)のために神から授けられた弓矢 を武器に変え、彼らは軍隊に変質した。

>弓矢については、弓矢ご参照

ナガスネヒコ軍が、侵攻軍をせん滅するため矢を一斉に放とうとしたまさにそのとき、ナガスネ彦たちのトーテム(守護神)である金の鵄(金鵄)が突然に飛来し※1 、激烈な閃光を放ってナガスネヒコたちから弓矢を取り上げ全員を打ちのめして殺戮を阻止し、殺戮することで堕落することからナガスネヒコたちを守った※2 。侵攻軍もまた、命の尊厳をないがしろにする者を許さない金の鵄の激烈な畏敬・畏怖の力で全員が打ちのめされひれ伏し改心した※3>。金の鵄は、堕落していたイワレヒコたちをも救済したのである<※4>。

※1

01  金の鵄は、北の鳥見(トミ)<奈良湖北西部/金鵄発祥の地>を発し、奈良湖上空を飛翔して、南の鳥見(トミ)<奈良湖南東部/金鵄飛来の地>のトミの戦いの地に飛来しました(2つのトミの位置は右地図ご参照)。なお、トミはトビが変化したもの<トミ(鳥見・登美・富)・トビ・富雄ご参照>。 

      <※2

ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?ご参照

      <※3

このことを記紀は述べていません(隠している)。

※4

  金の鵄はナガスネヒコたちの守護神ですが、イワレヒコたちをも救済したのです。これを、記紀の作者は、あたかも金の鵄はイワレヒコたちを援けて、賊軍たるナガスネヒコを戦わせなくした、というように改竄したのです。  

そののち、ナガスネ彦・イワレ彦・ニギハヤヒの三者は話し合いをした。それの内容は次のようであった。

 ①ナガスネ彦は、殺戮者は殺害されるべきであり、それを実行するためであれば、自らの、殺戮が 必要ない・できない、という本然の性(非戦・避戦の精神)を失ってもやむを得ない、という考えを改めなかった。

 ②イワレ彦は、これまでの自らの殺戮を心から反省し、先住民の本然の性(非戦・避戦の精神)を我がものとして「殺戮の無い平和なクニづくりをしていく」との不退転の決意と、それをナガスネ彦に固く約束すると述べた<※1> 。(そして、イワレ彦は、ナガスネ彦との約束を果たすため、天皇として即位する

 ③ニギハヤヒは、何度もナガスネ彦を説得したができず、涙を呑んでナガスネ彦を追放することを決意した。<※2>

 *なぜ、上記の内容になったのか(なぜイワレヒコは天皇となり、ナガスネヒコは去ったのか?

※1

  イワレ彦(渡来人を体現)がナガスネ彦(先住民を体現)との出合いの中で、先住民の本然の性を我がものとしたことは、先住民の本然の性(=非戦・避戦の精神)が、 先住民と渡来人の融合によって形成された日本人の集団集合の無意識となったことを神話的に表現したものです。  

※2

  この部分を日本書紀は、「饒速日命は・・・・・長髄彦は、性質がねじけたところがあり、・・・・・ということを教えても、分りそうもないことを見てこれを殺害された。」という風に改竄している。また、ナガスネ彦の最後は、古文献によって異なる(このページご参照)。 

三者の話し合い後、 ニギハヤヒは、平和なクニづくりを行うという約束の下に※1 、殺戮を反省し改心して殺戮者から統治者に変身を遂げた<※2>イワレヒコに内つ国を国譲り※3>し、イワレヒコは神武天皇として即位でき、ニギハヤヒは即位した天皇に「の魂たま」<倭(わ・やまと/のちの日本)を治める魂(たま・モノ)>を付与する※4モノノベ(魂モノの部 )の祖となった。一方、金の鵄の守護がなければ殺戮することで堕落していたナガスネ彦は指導者の資格を失い内つ国を追われたニギハヤヒは本然の性を持ちながらこれを放棄したナガスネ彦ではなく、先住民の本然の性を我がものとしたイワレ彦に未来を切り開く希望を見出し、彼にそれを託したのである。

 ナガスネ彦は北方に去った<※5> 。ニギハヤヒとその妻にしてナガスネ彦の妹であるミカシキヤ姫とその子のウマシマジ<※6>をはじめ、ナガスネ彦を愛する人々に見守られて・・・・・。イワレ彦も高台から、家臣と共に、ナガスネ彦を姿が見えなくなってもいつまでも膝ま付き頭を垂れて見送った。イワレ彦ははっきりと理解していた。 これからの統治者は、殺戮が「必要ない」「出来ない」だけでなく、それを「決してやらない」 「許さない」人間でもあるべきだということを。ナガスネ彦は、自分がいなくても、そのような者が統治するクニづくりができるようにするため、自らは敢えて追放される状況・立場に身を置いたのだということを・・・・・。       

※1

神武以後の天皇はこの約束を守ったか

  ①(景行天皇父子の)「言向和平」説話このページご参照)が古事記<景行記>に記載されていることを見ると、約束を守る努力はされていたことが分かります。 

  ②昭和天皇が逝去し、平成天皇は即位したとき、自らは憲法に規定される身でありながら即位式で「日本国憲法を遵守し」と述べた。この部分は、宮内庁が用意した原文に憲法第9条(殺戮否定)を意識しながら自ら加筆したといわれている。

  ③平成天皇は、「国旗・国歌の強制」という戦争(殺戮)を準備する恐れのある事案に明確に反対した(ご参照)。

※2

  統治者とは、当初はクニを統(す)べり(争いなくまとめ)治める(ととのえる)者であった(※a)が、クニに国家(権力機構)が確立していく(※b)と、国家を統治する(「権力=強制力」でおさえととのえる)者となっていった。 

※a

  クニを統(す)る(争いなくまとめる)尊者は、「皇(スラ)尊or命(ミコト)」と呼ばれましたた。もともと日本語では「寒い」を「さい」 とも「さい」 ともいうように、また、馬は「ば」(良馬など)とも「ま」(絵馬など) とも読むように、「は行」の濁点文字「ま行」の文字になることがあり、「すべる」が「すめる」になり、これに「皇」という漢字が当てられたと思われます。

(※b)

  農耕・牧畜民である渡来人がクニで本格農業(農耕)を展開していく中で国家が成立していきましたが、「農業(農耕)」と「国家(の成立)」については、それに関する記事(その1ミラーその2.jpgその3.pdfその4ミラー)をご参照ください。なお、国家成立の世界史的図式はこれです⇒「狩猟採集時代から農耕と定住の時代に入ったときのは大きな価値観の転換があった。手に入るもので満足し、食料が手に入らなくなったら移動するというその日暮らしから、計画を立て努力して働く暮らしになった。それまで考えつきもしなかった、蓄財が可能になった。都市が生まれ、職業が分化し、貨幣で物やサービスのやり取りをするようになった。そして、権力と不平等と搾取が生まれた。」(この記事ミラーより)

※3-1 > 

  国譲りご参照。「改心し2度と「殺戮」 はせず平和なクニづくりを行うという約束をしたものに国譲りされた」という神話は、日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」が創り出したものでした。

※3-2

  イワレ彦をして改心させ統治者(クニを争いなくまとめととのえる者)たらしめたのは、これまで彼によって殺戮された死者でした。金の鵄が放った激烈な閃光は死者のエネルゲイア(正す力)だったのです。権力への歯止めの主体は死者であることを見える化しているのは、アジア太平洋戦争の死者(300万人以上の日本人と3000万人以上の諸国民)のエネルゲイアによって制定された日本国憲法第9条ですが、それは、神話のなかでもすでに表現されていたのです。権力への歯止めの主体に死者がなることで、その死は犬死(不本意な無念の死)の状態から救われるのです。

※4-1

  これを行なう儀式を大嘗祭いじょうさいといい(これは、毎年おこなわれる単なる五穀豊穣を祈るだけの儀式ではなく、天皇即位後1回のみおこなわれる最重要な儀式)、これによって「倭の魂」を付与されなければ、即位の儀式をしただけでは日本を治める資格をもった天皇にはなれません。

※4-2

  大嘗祭はいわば強固な非戦・避戦の精神をもったもののみに天皇の資格を与える儀式ですが、象徴天皇制となった今日では、日本を治めるのは天皇ではないので、大嘗祭は必要なくなったにもかかわらず、天皇が日本を治めることになっていた戦前のやり方を見直すことなく踏襲して今日もなお、天皇の代替わり時に実施されています(「長髄彦とイワレヒコの戦い」と「象徴天皇制」ご参照)。大嘗祭という決定的な儀式に触ることは、天皇陵とされている古墳に触る以上に権力者にとってリスクの大きいものだからです。 

※4-3

和魂

※4-4

  歴史的には、ニギハヤヒは「早い時期にやってきた渡来人」のことで、先住民(縄文人/神話上はナガスネヒコ)と相対した際に、縄文人の本然の性ご参照)に畏怖・畏敬を受け、縄文人に教わりながら「敵対するものを融和させ、争いを治める英知」 を身につけ、先住民と共存・融合していきました。つまり、神話でいう「和魂=ニギハヤヒ 」は歴史的には「和魂(非戦・避戦の英知)=渡来人が先住民より学び会得した英知」のことです。そして、共存・融合を進めていた「早い時期にやってきた渡来人」と先住民は、 「殺戮 の体験がある※a、遅い時期にやってきた渡来人※b」がやってきたとき、「非戦・避戦の英知」を発揮して衝撃を与え、衝突・争いは最小限におさめようと努めながら彼らを受け入れ、縄文(狩猟採集漁労)と弥生(水田耕作)を融合させた里山をつくっていきました(これが、神話では国譲りと表現されています)※c。次第に形成された国家の力が強まるにつれ、その制御はむずかしくなっていきました(中国の歴史書がいう倭国大乱など)。しかし、一方、縄文人の本然の性は、縄文人と渡来人とが融合して形成されていった日本人(大和民族=大いなる和の民族)の「和の精神」(集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」)となりました。この精神は、日本において国家の権力を制御できない時代(今日まで2000年程度)には、押さえられてきましたが、今日では、逆に、この精神が国家の権力の暴走を抑えています(今のところは)。 

※a

遅い時期にやってきた渡来人の殺戮の体験を、神話では、イワレヒコ率いる侵攻軍の殺戮として語っています。 

※b

  先住民と「早い時期にやってきた渡来人」との出会いは、「非所有」vs「所有」という形をとりましたが、先住民+「早い時期にやってきた渡来人」と「遅い時期にやってきた渡来人」との出会いは、「非所有」+「所有」vs「所有」という形をとりました。

※c

  日本では、国譲り(先住民は移住民の土地所有を認め、共存・融合しながら、人と生き物が共に暮らす里山を形成していった)が行われたのに対し、北米・南米・オセアニアでは、移住民によって先住民(ネイティブ=アメリカン・アボリジニなど)や生き物(バッファロー・カンガルーなど)は絶滅させられ、または、大量殺戮された。この違いは、時代の違いから生じただけなのでしょうか

※4-5

  イワレヒコを殺戮せんとして「縄文人の本然の性」(ご参照)を捨て去ろうとしたナガスネヒコが打ちのめされ指導者の資格を失い内つ国を去らざるを得なかったことは、縄文人が渡来人と融合して日本人を形成しても、「縄文人の本然の性」は失われることはないことを伝えています。また、殺戮してきたイワレヒコが改心して「縄文人の本然の性」を受け入れたことで天皇に即位できたことは、渡来人が縄文人と融合して日本人を形成するのは「縄文人の本然の性」 を受けついでいくことを伝えています。つまり、ナガスネヒコとイワレヒコの神話(物語)は、日本人が形成されたとき、「縄文人の本然の性」が日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」 となったことを伝えています。

※5-1

  ナガスネ彦が北方に去ったことは、縄文人のなかには、渡来人と融合せずに北方へ移動したものがいたということを伝えています。ちなみに、日本人の祖先が遠い南方から沖縄の島づたいにやってきたとき、その中で島に残ったひとたちの子孫が沖縄の縄文人となったと考えられます。

※5-2 

  ニギハヤヒとナガスネ彦の妹であるミカシキヤ姫が婚姻し、ウマシマジが生まれたことは、縄文人と前期渡来人が平和的に融合したことを伝えています。

※5-3 

  ナガスネ彦が北方に去り、そのあとをイワレヒコが継いだというエピソードには、次の3つの意味が込められています。

   ① 国家(=権力)形成が不可避の弥生時代以後にあって、統治者は、殺戮が「必要ない」「出来ない」だけでなく、それを「決してやらない」 「許さない」者でもあるべきだという願い。現実には「国家がある時代」においては、この願いを実行するのは困難であり理念にとどまるが、聖武天皇や聖徳太子のように実行した統治者もいた(非戦・避戦の精神 ご参照)。

   なお、戦前の統治者は、大日本帝国憲法(旧憲法)に「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス 」「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬 」「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」「天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス」「天皇ハ戒嚴ヲ宣告ス」等の17の「天皇」条文をおいて、天皇がこの願い(理念)を実行に移すのを防ぐために万全の体制をとった。戦前の統治者にとって聖武天皇や聖徳太子の再来はなんとしてでも防がねばならなかった。戦後、戦争勢力は日本国憲法(新憲法)の改悪(旧憲法への回帰)に努めてきたがもちろん成功はしていない。戦後、天皇は、象徴天皇制を定める新憲法のもとで、憲法に逸脱しない範囲において、この願い(理念)を実行にうつしている(前天皇・皇后夫妻(および前皇太子・皇太子妃ご夫妻)の闘いご参照)。   

   ②水田耕作(穀物生産)を主とする弥生時代以後の長は五穀豊穣を祈る祭祀の主宰者であらねばならない。それができるのは弥生人であるイワレヒコであり、狩猟採集漁労の縄文人のナガスネヒコにはできないということ。このため、イワレヒコが天皇(瑞穂の国の統治者)になる(即位する)ために大嘗祭<「五穀豊穣=平和で豊か」を祈る「祭祀者」である資格(=天皇として即位する資格)を得るための儀式 >をおこなった。

   ③<重要殺戮が無いがゆえに「非戦・避戦の精神」は無価値なものであった時代に生きた者は、ナガスネヒコがそうなりかけたように、殺戮の時代には、殺戮者に堕落してしまうおそれがある。そのため、その時代には、イワレヒコのように、「非戦・避戦の精神」が最高の価値あるものとして殺戮を決してしない者が指導者(天皇)とならねばならない。なお、「非戦・避戦の精神」が無価値なものから最高の価値あるものに発展することについては、 弁証法の活用・・・生駒の神話の復元(弁証法で生駒の神話を読み解く)をご参照。

   ④現在の象徴天皇制は、天皇が政治的に利用されるのを防ぐものであると同時に、天皇が非戦・避戦の政治的言動をするのを妨げる役割もしているが、象徴天皇制は、鎌倉幕府3代執権・北条泰時がすでに創出しており(ご参照)、明治以後の一時中断期を経て、戦後、その復活(日本国憲法に規定)は日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」を見える化せしめた。つまり、憲法9条を制定せしめた(ご参照ミラーご参照ミラー)。

総括的解説> 

)生駒の神話は、縄文人の本然の性ご参照)が、日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」 となった過程を示す物語りであるといえます。その過程を図式化すれば次のようになるでしょう。

  ①ナガスネヒコの本然の性(縄文人の「非戦・避戦の精神」)は、未否定(否定されるという試練を受けたことのない状態=即自)だった。

  ②ナガスネヒコの本然の性は、イワレヒコ(遅くに渡来した弥生人)の「武力=実力=暴力=強制力」によって否定されそうになるという試練を受けた(対自)

  ③ニギハヤヒ(早くに渡来していた弥生人で縄文人との住み分け共存を実現していた)が、本然の性の否定を否定した。それによって、ナガスネヒコの本然の性は、いかなる試練があろうとも(強制力を属性とする国家の権力によって抑え込まれることはあっても)滅ぶことのない、(縄文人と弥生人の融合によって形成された)日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神 」となった(否定を否定することで否定されざる次元へと引き上げられた=止揚)。

)(1)の図式は、次の図式とパラレルになっています。

  ①縄文人は、一次自然(原生林等の手つかずの自然)にて生きていた。

  ②渡来人=弥生人は、水田耕作をするため一次自然(原生林等)を否定(破壊)した。

  ③間もなく、一次自然(原生林等)の否定(破壊)の否定(自然の再生)により、縄文人と弥生人が融合して形成された日本人が生きる「縄文と弥生の要素が融合した、人と生き物が共に暮らす命響き合う美しい自然の世界」=「里山二次自然)」が広がっていった。 

)(1)のことは、いいかえるとつぎのように言えます。

  縄文人(殺戮を知らない・できない人々)と弥生人(殺戮をする人々・できる人々) とが出会うことで、日本人(殺戮をしない人々=「非戦・避戦の精神」を持つ人々)が形成された。

)(3)のように、日本人は「非戦・避戦の精神」を持つ人々として形成されましたが、「国家=権力(武力等の強制力を行使する主体、および、その力)」が存在する時代にあっては、その精神は、消滅することはないものの抑え込まれてきました。そのため、戦いが起こってきました。権力とは「疎外物」(人間がつくったものでありながら、人間の手をはなれてよそよそしくなり、ついには人間に敵対するようになるもの)であるからです。「非戦・避戦の精神」 が抑え込まれないようにするためには、権力が人間に敵対しないように、これを意識的に規制しなければなりません。それをおこなう手法として憲法がつくられました。そして、日本国憲法が制定されたとき、それに第9条(戦争放棄)が盛り込まれたのは、日本人が「非戦・避戦の精神」を持つ人々であったからです。

「ピュシス 」と「ロゴス」

)神武東征の最後の記述が、日本書紀と古事記とで大きく異なっています。前者では、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺害して戦いを終わらせてイワレヒコに帰順(国譲り)した、とあり、後者では、イワレヒコは戦い前に「撃ちてしやまむ」と歌って気勢をあげたが、そのあと、戦いの描写はなく、いきなり、ニギハヤヒの帰順の話に移り、ナガスネヒコがどうなったのかの記述がありません。ただ、いずれも「イワレヒコはナガスネヒコに勝利した」との記述がないことは共通しています。

 記紀の記述が全く異なっており、いずれも「イワレヒコはナガスネヒコに勝利した」と記述ができなかった、との記紀の謎に対する答は、国家統治の必要性から作成された記紀ともに次のことを隠しているから、です。

 イワレヒコ(遅くに渡来した人々/国家形成意欲強し)は、ニギハヤヒ(早くに渡来し、先住の人々と融合・共存していた人々/国家形成意欲弱し)の介添え・忠告・助言を受けて、 ナガスネヒコ(先住の人々=縄文人/国家形成の必要がないので、その意欲なし)の気高さの畏敬・畏怖の力に打たれ、殺戮を反省して改心し、みんなが融合・共存していくクニをつくっていくことを約束することで、受け入れられた(クニづくりを許された)。そして、その約束を守ることが、大和(大なる和)の国の原点となり、それを確認する儀式として大嘗祭(ご参照)が、天皇が即位する際に行われることが慣習となった。

 記紀の作者は、クニの原点に、国家統治者の祖先が戦いで勝てないながら、もしくは、敗北しながら、「反省して改心した」ことで受け入れられた(クニづくりを許された/国譲りされた) ということは書けなかったのです。

 こうして、イワレヒコ(遅くに渡来した人々)が受け入れられたのちも、彼らが統治する国家が形成されるまでには相当の時間を要しました。このことを反映した記述が「欠史八代」です。

弁証法で読み解く「天皇制の起源」(弁証法の活用による、天皇制の起源を伝える生駒の神話の復元)

  

生駒の神話のストーリー  

生駒の神話のストーリー(骨子)(新情報を反映した改訂はなく、作成当時のまま

】【1】の【解説付版】 新情報を反映した改訂を随時に行なっております。そのため、「生駒の神話」のWEBページの他の箇所と整合性のとれない記載がある場合は、このページの記載が最新のものであります。)

】【1】 に手直しする前のものを生駒検定<全国版>の第1問の問題文としています⇒そのWEB版その文書版.pdf
(新情報を反映した改訂はなく、作成当時のまま

】上記の「骨子」を打ち出す際に作成した、ストーリーの青写真が生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)<概説> (新情報を反映した改訂はなく、作成当時のまま)です。

各文献をつなぎ合わせた「生駒の神話」を原案に『新編 生駒の神話』を創作中。

ストーリー各種

(1)石切劔箭神社の由緒 

(2)歴史街道・人物往来<神武天皇>: ①.jpg②.jpg / ③.pdf

87(3)いこま歴史探訪 神話の里生駒-長髄彦伝説‐<→その一場面(左が長髄彦軍 ・ 右が神武軍)<クリックで拡大>

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『新編 生駒の神話』<創作途中> 

~『新編 生駒の神話』とは各文献をつなぎ合わせた「生駒の神話」を原案に、文献リテラシー(※)を用いて、これらの立脚点に立ち、これらの留意点を踏まえ、これらの資料を根拠に設定した「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)に沿って、生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)<概説>を青写真にし、これを骨子にしてとりまとめ創作したものです。~
     (※)リテラシー・・・適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現し、その真意を把握する力。

饒速日尊、葦原の中国に降臨す(『先代旧事本紀』より)・・・この部分は添削する。 

天照太神が仰せになった。「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)の治めるべき国である」と仰せになり命じられて、天からお降しになった。ときに、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)をお生みになった。

 このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。「私がまさに天降ろうと思い、準備をしているあいだに、生まれた子がいます。これを天降すべきです」そこで、天照太神は、これを許された。

 天神の御祖神は、詔して、天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授けた。

 瀛都鏡(おきつかがみ)一つ 辺都鏡(へつかがみ)一つ 八握(やつか)の剣一つ 生玉(いくたま)一つ 死反(まかるかえし)の玉一つ 足玉(たるたま)一つ 道反(ちかえし)の玉一つ 蛇の比礼(ひれ)一つ 蜂の比礼一つ 品物(くさぐさのもの)の比礼一つ というのがこれである。

 天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」これが“布留(ふる)の言(こと)”の起源である。

 高皇産霊尊が仰せになった。「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものがいるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」

 そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕えさせた。

 天香語山命(あまのかごやまのみこと)尾張連(おわりのむらじ)らの祖。天鈿売命(あまのうずめのみこと)猿女君(さるめのきみ)らの祖。天太玉命(あまのふとたまのみこと)忌部首(いむべのおびと)らの祖。天児屋命(あまのこやねのみこと)中臣連(なかとみむらじ)らの祖。天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)鴨県主(かものあがたぬし)らの祖。天道根命(あまのみちねのみこと)川瀬造(かわせのみやつこ)らの祖。天神玉命(あまのかむたまのみこと)三嶋県主(みしまのあがたぬし)らの祖。天椹野命(あまのくぬのみこと)中跡直(なかとのあたい)らの祖。天糠戸命(あまのぬかとのみこと)鏡作連(かがみつくりのむらじ)らの祖。天明玉命(あまのあかるたまのみこと)玉作連(たまつくりのむらじ)らの祖。天牟良雲命(あまのむらくものみこと)度会神主(わたらいのかんぬし)らの祖。天背男命(あまのせおのみこと)山背久我直(やましろのくがのあたい)らの祖。天御陰命(あまのみかげのみこと)凡河内直(おおしこうちのあたい)らの祖。天造日女命(あまのつくりひめのみこと)阿曇連(あずみのむらじ)らの祖。天世平命(あまのよむけのみこと)久我直(くがのあたい)らの祖。天斗麻弥命(あまのとまねのみこと)額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)らの祖。天背斗女命(あまのせとめのみこと)尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)らの祖。天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)間人連(はしひとのむらじ)らの祖。天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)安芸国造(あきのくにのみやつこ)らの祖。天神魂命(あまのかむたまのみこと)[または三統彦命(みむねひこのみこと)という]葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖。天三降命(あまのみくだりのみこと)豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)らの祖。天日神命(あまのひのかみのみこと)対馬県主(つしまのあがたぬし)らの祖。乳速日命(ちはやひのみこと)広沸湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)らの祖。八坂彦命(やさかひこのみこと)伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)らの祖。伊佐布魂命(いさふたまのみこと)倭文連(しどりのむらじ)らの祖。伊岐志迩保命(いきしにほのみこと)山代国造(やましろのくにのみやつこ)らの祖。活玉命(いくたまのみこと)新田部直(にいたべのあたい)の祖。少彦根命(すくなひこねのみこと)鳥取連(ととりのむらじ)らの祖。事湯彦命(ことゆつひこのみこと)取尾連(とりおのむらじ)らの祖。八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の子・表春命(うわはるのみこと)信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)らの祖。天下春命(あまのしたはるのみこと)武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)らの祖。月神命(つきのかみのみこと)壱岐県主(いきのあがたぬし)らの祖。

 また、五部(いつとものお)の人が副い従って天降り、お仕えした。

 物部造(もののべのみやつこ)らの祖、天津麻良(あまつまら)。笠縫部(かさぬいべ)らの祖、天曽蘇(あまのそそ)。為奈部(いなべ)らの祖、天津赤占(あまつあかうら)。十市部首(とおちべのおびと)らの祖、富々侶(ほほろ)。筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)らの祖、天津赤星(あまつあかぼし)。

 五部の造が供領(とものみやつこ)となり、天物部(あまのもののべ)を率いて天降りお仕えした。

 二田造(ふただのみやつこ)。大庭造(おおばのみやつこ)。舎人造(とねりのみやつこ)。勇蘇造(ゆそのみやつこ)。坂戸造(さかとのみやつこ)。

 天物部ら二十五部の人が、同じく兵杖を帯びて天降り、お仕えした。

 二田物部(ふただのもののべ)。当麻物部(たぎまのもののべ)。芹田物部(せりたのもののべ)。鳥見物部(とみのもののべ)。横田物部(よこたのもののべ)。嶋戸物部(しまとのもののべ)。浮田物部(うきたのもののべ)。巷宜物部(そがのもののべ)。足田物部(あしだのもののべ)。須尺物部(すさかのもののべ)。田尻物部(たじりのもののべ)。赤間物部(あかまのもののべ)。久米物部(くめのもののべ)。狭竹物部(さたけのもののべ)。大豆物部(おおまめのもののべ)。肩野物部(かたののもののべ)。羽束物部(はつかしのもののべ)。尋津物部(ひろきつのもののべ)。布都留物部(ふつるのもののべ)。住跡物部(すみとのもののべ)。讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。相槻物部(あいつきのもののべ)。筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。播麻物部(はりまのもののべ)。筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。

 船長が同じく、梶をとる人たちを率いて、天降りお仕えした。

 船長・跡部首(あとべのおびと)らの祖 天津羽原(あまつはばら)。梶取・阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 天津麻良(あまつまら)。

船子・倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖 天津真浦(あまつまうら)。笠縫らの祖 天津麻占(あまつまうら)。曽曽笠縫(そそかさぬい)らの祖 天都赤麻良(あまつあかまら)。為奈部(いなべ)らの祖 天津赤星(あまつあかぼし)。

 饒速日尊(にぎはやひのみこと)は、天神の御祖神のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、“虚空見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。

 饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って妃とした。御炊屋姫は妊娠した。まだ子が生まれないうちに、饒速日尊は亡くなられた。その報告がまだ天上に達しない時に、高皇産霊尊は速飄神(はやかぜのかみ)に仰せになった。「私の神の御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。だから、お前は天降って復命するように」このようにご命命になった。速飄神は勅を受けて天降り、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで、天に帰りのぼって復命して申しあげた。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄の神を遣わし、饒速日尊のなきがらを天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし、悲しまれた。そして天上で葬った。

饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃として、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)をお生みになった。

これより以前、妊娠してまだ子が生まれていないときに、饒速日尊は妻へ仰せられた。「お前がはらんでいる子が、もし男子であれば味間見命(うましまみのみこと)と名づけなさい。もし女子であれば色麻弥命(しこまみのみこと)と名づけなさい」産まれたのは男子だったので、味間見命と名づけた。

 饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天にのぼっていないとき、高皇産霊尊が速飄神(はやかぜのかみ)にご命令して仰せられた。「我が御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。お前は天降って調べ、報告するように」速飄命は天降って、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで天に帰りのぼって復命した。「神の御子は、すでに亡くなっています」高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄命を遣わし、饒速日尊の遺体を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし悲しまれ、天上で葬った。

 饒速日尊は、妻の御炊屋姫に夢の中で教えて仰せになった。「お前の子は、私のように形見のものとしなさい」そうして、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また神衣・帯・手貫の三つのものを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。

 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命(あめみちひめのみこと)を妃として、天上で天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになった。天降って、御炊屋姫を妃として、宇摩志麻治命をお生みになった。

宇摩志麻治命

 天香語山命の弟、宇摩志麻治命。または味間見命といい、または可美真手命(うましまでのみこと)という。 

 天孫天津彦火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊は、天下を治めようと思われて、軍をおこして東征されたが、所々にご命令に逆らう者たちが蜂のように起こり、従わなかった。中つ国の豪族・長髄彦は、饒速日尊の子の宇摩志麻治命を推戴し、主君として仕えていた。天孫の東征に際しては、「天神の御子が二人もいる訳がない。私は他にいることなど知らない」といい、ついに兵をととのえてこれを防ぎ、戦った。天孫の軍は連戦したが、勝つ事ができなかった。

 このとき、宇摩志麻治命は伯父の謀りごとには従わず、戻ってきたところを誅殺した。そうして衆を率いて帰順した。

 天孫は、宇摩志麻治命に仰せになった。「長髄彦は性質が狂っている。兵の勢いは勇猛であり、敵として戦えども勝つ事は難しかった。しかるに伯父の謀りごとによらず、軍を率いて帰順したので、ついに官軍は勝利する事ができた。私はその忠節を喜ぶ」

 そして特にほめたたえ、神剣を与えることで、その大きな勲功にお応えになった。この神剣は、韴霊(ふつのみたま)剣、またの名は布都主神魂(ふつぬしのかむたま)の刀、または佐士布都(さじふつ)といい、または建布都(たけふつ)といい、または豊布都(とよふつ)の神というのがこれである。

 また、宇摩志麻治命は、天神が饒速日尊にお授けになった天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を天孫に献上した。天孫はたいへん喜ばれて、さらに寵愛を増された。また、宇摩志麻治命は、天物部(あまのもののべ)を率いて荒ぶる逆賊を斬り、また、軍を率いて国内を平定して復命した。

 天孫磐余彦尊は、役人に命じてはじめて宮殿を造られた。辛酉年の一月一日に、磐余彦尊は橿原宮(かしはらのみや)に都を造り、はじめて皇位につかれた。この年を、天皇の治世元年とする。皇妃の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を立てて皇后とした。皇后は、大三輪の神の娘である。 

 宇摩志麻治命がまず天の瑞宝をたてまつり、また、神盾を立てて斎き祭った。五十櫛という、または斎木を、布都主剣のまわりに刺し巡らして、大神を宮殿の内に奉斎した。そうして、天つしるしの瑞宝を納めて、天皇のために鎮め祀った。このとき、天皇の寵愛は特に大きく、詔していわれた。「殿内の近くに侍りなさい」(近く殿の内に宿せよ〈すくせよ〉)そのためこれを足尼(すくね)と名づけた。足尼という号は、ここから始まった。

 高皇産霊尊の子の天富命(あまのとみのみこと)は、諸々の斎部を率い、天つしるしの鏡と剣を捧げて、正殿に安置した。天児屋命の子の天種子命(あまのたねこのみこと)は、神代の古事や天神の寿詞を申しあげた。宇摩志麻治命は内物部を率いて、矛・盾を立てて厳かでいかめしい様子をつくった。道臣命(みちのおみのみこと)は来目部を率いて、杖を帯びて門の開閉をつかさどり、宮門の護衛を行った。それから、四方の国々に天皇の位の貴さと、天下の民に従わせることで朝廷の重要なことを伝えられた。

 ときに、皇子・大夫たちは、臣・連・伴造・国造を率いて、賀正の朝拝をした。このように都を建てて即位され、年の初めに儀式をするのは、共にこのときから始まった。

 宇摩志麻治命は十一月一日の庚寅の日に、はじめて瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために奉り、御魂を鎮め祭って御命の幸福たることを祈った。鎮魂(たまふり)の祭祀はこのときに始まった。天皇は宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の亡父の饒速日尊が天から授けられてきた天璽瑞宝をこの鎮めとし、毎年仲冬の中寅の日を例祭とする儀式を行い、永遠に鎮めの祭りとせよ」いわゆる“御鎮祭”がこれである。

 およそ、その御鎮祭の日に、猿女君らが神楽をつかさどり言挙げして、「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」と大きな声でいって、神楽を歌い舞うことが、瑞宝に関係するというのはこのことをいう。 

 治世二年春二月二日、天皇は論功行賞を行われた。宇摩志麻治命に詔して仰せられた。「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、先に神剣を授けて類いない勲功を崇め、報いた。いま、股肱の職に副えて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」 

 この日、物部連らの祖・宇摩志麻治命と、大神君(おおみわのきみ)の祖・天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は、ともに食国の政事を行う大夫に任じられた。その天日方奇日方命は、皇后の兄である。食国の政事を行う大夫とは、今でいう大連・大臣にあたる。

 そうして宇摩志麻治命は、天つしるしの瑞宝を斎き祀り、天皇の長寿と幸せを祈り、また布都御魂の霊剣をあがめて国家を治め護った。このことを子孫も受け継いで、石上の大神をお祀りした。詳しくは以下に述べる。

瓊々杵尊降臨(『先代旧事本紀』より)・・・この部分は添削する。  

天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)は天降って、筑紫の日向の襲の槵触二上峯にいらっしゃった。

ウガヤフキアエズノミコト誕生

 (略)彦波瀲武鸕草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)は、天孫・彦火々出見尊[また火折尊ともいう]の第三子である。母を豊玉姫命という。海神の上の娘である。豊玉姫命の妹の玉依姫命(たまよりひめのみこと)を立てて皇妃とされた。すなわち、海神の下の娘で、鸕草葺不合尊の叔母にあたる。四人の御子をお生みになった。子の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)[賊の矢にあたって亡くなった]。次に、稲飯命(いなひのみこと)[海に没して鋤持神となった]。次に、三毛野命(みけいりぬのみこと)[常世の郷に行かれた]。次に、磐余彦命(いわれひこのみこと)。

イワレヒコの東征出発(『日本書紀』より)・・・この部分は添削する。  

 神日本磐余彦天皇の諱(ただのみな/実名)は、彦火火出見(ホホデミ)という。鸕が草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の第四子である。母は王依姫といい、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)の二番目の娘である。天皇は生まれながらにして賢い人で、気性がしっかりしておられた。十五歳で皇太子となられた。成長されて、日向国吾田邑(ひむかのくにあたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶とって妃とされた。手研耳命(たぎしのみこと)を生まれた。四十五歳になられたとき、兄弟や子どもたちに言われるのに、「昔、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と天照大神が、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)を、祖先の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられた。そこで瓊瓊杵尊は天の戸をおし開き、路をおし分け先払いを走らせておいでになった。このとき世は太古の時代で、まだ明るさも充分ではなかった。その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治められた。代々父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年になる。しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた、塩土の翁(しおつちのおじ)に聞くと『東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天・の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」と申された。この年は太歳(たいさい/12年の周期で巡行する木星の異名)の甲寅(きのえとら)である。

 その年冬十月五日に、天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて、東征に向われた。速吸之門(はやすいなと/豊予海峡)においでになると、一人の漁人(あま)が小舟に乗ってやってきた。天皇は呼びよせてお尋ねになり、「お前は誰か」といわれた。答えて「私は土着の神で、珍彦(うずひこ)と申します。曲(わだ)の浦に釣りにきており、天神(あまつかみ)の御子(みこ)がおいでになると聞いて、特にお迎えに参りました」という。また尋ねていわれる。「お前は私のために道案内をしてくれるか」と。「御案内しましょう」という。

 天皇は命じて、漁人に椎竿(しいさお)の先を差出し、つかまらせて舟の中に引き入れ、水先案内とされた。そこで特に名を賜って椎根津彦(しいねつひこ)とされた。これが倭直(やまとのあたい)らの先祖である。筑紫の国の宇佐についた。すると宇佐の国造の先祖で宇佐津彦(うさつひこ)・宇佐津姫(うさつひめ)という者があった。宇佐の川のほとりに、足一つあがりの宮(川の中へ片側を入れ、もう一方は川岸へかけて構えられた宮か)を造っておもてなしをした。このときに宇佐津姫を侍臣(おもとまえつかみ)の天種千命(あまのたねのみこと)に娶(め)あわされた。天種子命は中臣氏の先祖である。

 十一月九日、天皇は筑紫の国の岡水門(おかのみなと)につかれた。

 十二月二十七日、安芸国について埃宮(えのみや)においでになった。翌年乙卯(きのとう)春三月六日に、吉備国に移られ、行館(かりのみや)を造っておはいりになった。これを高島宮という。三年の間に船舶を揃え兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。

 戊午(つちおえうま)の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに東に向った。舳艫(じくろ/船首と船尾)相つぎ、まさに難波碕(なにはのみさき)に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名づけて浪速国(なみはやのくに)とした。また浪花(なみはな)ともいう。今難波(なにわ)というのはなまったものである。

 三月十日、川をさかのぼって、河内国草香村(くさかむら/のちの日下村)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた。

3-2邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征基づいた記述追記

草香の戦い(『日本書紀』より)・・・この部分は添削する。

 夏四月九日に、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことができなかった。そこで引返して、さらに東の方生駒山を越えて内つ国に入ろうとした。そのときに長髄彦(ながすねひこ)がそれを聞き、「天神の子がやってくるわけは、きっとわが国を奪おうとするのだろう」といって、全軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか)で戦った。流れ矢が当たって五瀬命の肘脛(ひぎはぎ)に当たった。天皇の軍は進むことができなかった。天皇はこれを憂えて、はかりごとをめぐらされた。

 「いま自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向って敵を討つのは、天道に逆らっている。一度退去して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背中に太陽を負い、日神の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば刃に血ぬらずして、敵はきっと敗れるだろう」といわれた。皆は「そのとおりです」という。そこで軍中に告げていわれた。「いったん停止。ここから進むな」と。そして軍兵を率いて帰られた。敵もあえて後を追わなかった。草香津(くさかのつ)に引き返し、盾をたてて雄たけびをし士気を鼓舞された。それでその津を、改めて盾津(たてつ)とよんだ。いま蓼津(たでつ)というのは、なまっているのである。

 初め孔舎衛の戦いに、ある人が大きな樹に隠れて、難を免れることができた。それでその木を指して、「恩は母のようだ」といった。時の人はこれを聞き、そこを母木邑(おものきのむら)といった。今「おものき」というのは、なまったものである。

イワレヒコ軍の迂回(『日本書紀』より)・・・この部分は添削する。

    愛瀰詩烏(えみしを)毘人嚢利(ひだり)毛々那比苔(ももなひと)比苔破易陪廼毛(ひとはいへども)多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)

長髄彦と金鵄(『日本書紀』より)・・・この部分は添削する。

 十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空か暗くなってきて、雹(ひょう)が降つてきた。そこへ金色の不思議な鵄が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようであった。このため長髄彦の軍勢は、皆眩惑されて力戦できなかった。長髄というのはもと邑(むら)の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑(とびのむら)と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。昔、孔舎衛の戦いに、五瀬命が矢に当って歿くなられた。天皇はこれを忘れず、常に恨みに思つておられた。この戦いにおいて仇をとりたいと思われた。そして歌っていわれた。

  ミツミツシ、クメノコラ(久米之子等)ガ、「カキモトニ」アハフ(粟田)ニハ、カミラ(韮)ヒトモト(一本)、ソノガモト(其根茎)、ソネメツナギテ(其根茎繋)、ウチテシヤマム(撃而止)<天皇の御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、粟が生え、その中に韮が一本まじっている。その韮の根本から芽までつないで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう>

 また歌っていう。

  ミツミツシ、クメノコラガ、カキモト(垣下)ニ、ヴヱシハジカミ(植韮)、クチビヒク(口疼)、ワレハワスレズ(我不忘)、ウチテシヤマム<天皇の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう>

 また兵を放って急追した。すべて諸々の御歌を、みな来目歌という。これは歌った人を指して名づけたのである。

 さて長髄彦は使いを送って、天皇に言上し、「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降られました。櫛玉饒連日命(クシタマニギハヤヒノミコト)といいます。この人が我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶とって子ができました。名を可美真手命(ウマシマデノミコト)といいます。それで、手前は、饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おられるのですか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。手前が思うのにそれは偽者でしょう」と。天皇がいわれる。「天神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天神の子ならば、必ず表(しるし/しるしの物)があるだろう。それを示しなさい」と。長髄彦は、饒速日命の天の羽羽矢(あまのははや/蛇の呪力を負った矢)と歩靫(かちゆき/徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ/矢を入れて携行する道具)を天皇に示した。天皇はご覧になって、「いつわりではない」といわれ、帰って所持の天の羽羽矢一本と、歩靫を長髄彦に示された。長髄彦はその天神の表を見て、ますます恐れ、畏まった。けれども兵器の用意はすっかり構えられ、中途で止めることは難しい。そして間違った考えを捨てず、改心の気持がない。饒連日命は、もとより天神が深く心配されるのは、天孫のことだけであることを知っていた。またかの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分りそうもないことを見てこれを殺害された。そしてその部下達を率いて帰順された。天皇は饒連日命が天から降ったということは分り、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である。

6-2長髄彦 とイワレヒコの戦いに基づいた記述追記

6-3ナガスネヒコの守り神「金の鵄」はなぜナガスネヒコが戦うのを止めたのか?基づいた記述追記

イワレヒコの橿原即位(『日本書紀』より)・・・この部分は添削する。

 辛酉(かのととり)の年春一月一日、天皇は橿原宮にご即位になった。この年を天皇の元年とする。・・・・・古語にも、これを称して次のようにいう。「・・・・・始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト/始めて天下を治められた天皇)」と申し、名づけて神日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイハレヒコホホデミノスメラミコト)という。

 四年春二月二十三日、詔して「わが皇祖の霊が、天から降り眺められて、我が身を助けて下さった。今、多くの敵はすべて平げて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい」と。神々の祀りの場を、鳥見山の中に設けて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。そして高皇産霊尊を祀った。

 三十一年夏四月一日、天皇の御巡幸があった。腋上(わきかみ)の味間(ほほま)の丘に登られ、国のかたちを望見していわれるのに、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)がトナメして(交尾して)いるように、山々が連なり囲んでいる国だなあ」と。これによって始めて秋津洲(あきつしま)の名ができた。昔、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)がこの国を名づけて、「日本は心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、勝れていて良く整った国」といわれた。また大己貴大神(おおあなむちのおおかみ)は名づけて「玉牆の内つ国(美しい垣のような山に囲まれた国)」といわれた。

 饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名づけて「空見つ日本(やまと)の国(大空から眺めて、よい国だと選ばれた日本の国)」という。

その後の長髄彦の行方・・・文献に記された下記のことを考慮しながら記述

は定かではない。しかし、奥州では「長髄彦は兄アビヒコと共に日高見(東北地方)の地を新たな故国として移住し、先住民族と合流してアラバキ族と名乗り、日高見の国を長く治めた」と伝えられるなど、各地で長髄彦の精神(愛瀰詩えみしの心)は受け継がれている。

解 説 

新編 生駒の神話』についての解説

【1】この昔の物語の名前 

(*)昔の話の呼び方には、説話・民話・昔話・伝説・伝承・神話・俗話・寓意などがあり、それらを基にしながら創作した話は、新訳・新編・翻案・訳編などといいますが、取り敢えず、『新編 生駒の神話』といたします(今後、変更することがあるかも知れません)。 

【2】この物語を記すにあたって依拠・参考にしたもの⇒参考文献等ご参照

【3】主人公・舞台

主人公 長髄彦  饒速日

舞台 奈良(大和)湖河内(古大阪)湾  豊秋津洲とよあきつしま

      長髄彦饒速日の本拠地・・・生駒神話ゆかりの古蹟が集中している生駒四河川の源流・分水嶺地帯(生駒の地図・写真ご参照)とそ周辺

      神武東征の目的地・・・当初は長髄彦饒速日の本拠地であったが、のち、移行した(神武東征ご参照)。  

【4】物語の構成 

(1)【3】を主人公・舞台とし、できるだけ【2】の依拠・参考にしたものに記されたものから、物語を構成する上で最適な記述を選び、それらを組み合わせて筋の通った物語を構成するように努めました(このような、既述の文献に記されたものを組み合わせて神話を構成していく方法は記紀と同様のやり方です)。 

(2)その際、生駒の神話は郷土生駒の人物・神を魅力的に描かねばならないことは当然であり(それが郷土の昔の話というもの)、そのような人物・神について、魅力を減じさせるような通説・記述※は、できるだけ荒唐無稽にならないように、あるいは、異説があればそれに沿って、魅力が減じないように解釈・記述し直しました。神話というものは本来、口から耳へ、耳から口へと語り伝えられた、口頭による伝承として存在し、記録のさいに、筆録の目的、あるいは筆録者の条件によって、整理されることが多く、削除・省略があったり、逆に付加があったりもし、そこには潤色や作為が作用するものとされています(上田正昭「日本人“魂”の起源」.pdfご参照)。

    ※例えば、長髄彦は性質がよくなく、義理の弟(妹の婿)である神または甥(妹の息子)に裏切られて殺されてしまうのが通説(書紀や旧事紀の記述)で、そのように通説は長髄彦やその義理の弟(妹の婿)である神や甥(妹の息子)を悪く描いています。 

(3)普遍性(多くの人が理解できる内容)を得るため、まったくの創作(【2】に記したものにまったく依拠しないもの)はできるだけ避けるように努めましたが、【5】に記された疑問点(記紀等の通説が述べていないこと、矛盾することなど)は、解明し、または筋の通るように解釈し直しました。 

(4)以上に従い、【5】に立脚し、【6】を踏まえて、この物語の枠組み(パラダイム)を設定した上で物語を構成していきます。

(*)物語の作り方/物語のでき方物語の組み立て方の参考例.pdfなど)

【5】立脚点<そのいくつかは、疑問点に対する答>

【6】留意点

生駒を舞台とする日本神話(生駒の神話)についての解説

【1】生駒の神話と現在 / 非戦・避戦の精神の系譜  「長髄彦とイワレヒコの戦い」と「象徴天皇制」 / 生駒の神話と天皇制

戦い忌避神話である生駒神話は、戦い忌避伝承である生駒伝承と符号・共鳴している。生駒の神話は、「縁起の法」の神話化であるとも考えられる<縁起の法ご参照>。

Q&A

 Q.神武天皇はさほど高くない生駒山をなぜ越えられなかったのでしょう?

  A.現代の内陸の移動手段は車ですが、車で移動する場合、陸路を走ってきて、水深1メートル程度の川にぶつかり橋がない場合、たとえその川の幅がさほど広くなく1メートル程度でも越えられません。

   古代には車はなく内陸でも移動手段は船です(入江・川・湖沼に道があった)。船で移動する場合、水上を走ってきて、高さ100メートル程度の山にぶつかり水路がない場合、たとえその山の奥行がさほど深くなく100メートル程度でも越えられません。だから神武は生駒山を超えられなかったのです。

   古代にあっては、海・川・湖沼こそが道であり遠隔地をつなぐもので、陸こそ障壁だったのです。日本列島を囲んでいた海は障壁どころか、その反対の遠隔地をつなぐものだったのです。

日本古代の謎

 

    

 

 

参考文献等  

【1】生駒市誌  富雄町史  大和志料 

【2】古事記古事記<リンク>/原文<リンク>/現代語訳<青空文庫>) 日本書紀日本書紀<リンク>/原文<リンク>)  先代旧事本紀  古語拾遺  万葉集(原文・訓読・仮名)<リンク>ミラー

  記紀について先代旧事本紀・古語拾遺 概要.pdf

   古事記と日本書紀

   相違点・・・古事記は国内向けに天皇の正統性を訴える(多くの豪族がいたなかで最後まで勝ち残った一族が名乗った天皇家の支配を正当化する/大和政権による中央集権体制を正当化する) ことを目的に、和風の漢文で編纂されたもので、日本書紀は外国(唐や新羅)向けに日本という国家の存在と正統性を主張することを目的に、中国の歴史書にならって重厚・純粋な漢文で編纂されたもので正史としての威厳に満ちている。/入門書は、古事記については多く出ている。一方、日本書紀については少ない。なぜかというと、それは原文が純粋な漢文で書かれ、なおかつ神話というよりは歴史としての性格の方が濃いという見方が現代ではされているからだ。

   共通点・・・いずれも、文書主義の律令制度を維持するために歴史書が求められる中で、時の天皇の勅命(命令)で、従来から各豪族や各地に伝えられてきた、神話・伝承・歴史等を、それぞれの編纂目的にそって、潤色し、不都合な事実は改ざん・改変・軽視>しながら編纂したもの。この改ざん部分はリテラシー(適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現し、その真意を明らかにこと)や厳密な史料批判 によって、もとの真実を復権させなければならない。

>特に記紀共による生駒神話の改ざんと紀による出雲神話の軽視は著しい。

【3】新撰姓氏録新撰姓氏録概要.pdf>  各地の風土記.pdf

【4】各地の神社伝承・民間伝承 

【5】海外の文献

【6】学者・研究者の説

(1)小林達雄「縄文人の世界」「縄文の思考」   谷川健一「白鳥伝説」 「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」「列島縦断地名逍遥」「古代史と民俗学」.pdf  古田武彦「真実の東北王朝」「古代通史」「邪馬一国への道標」.pdf「盗まれた神話 記・紀の秘密」.pdf古代は輝いていたⅡ 日本列島の大王たち.pdf <古田武彦氏のいくつかの著作はここで読むことができます。>   喜田貞吉「本州における蝦夷の末路」   梅原猛「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」「神々の流竄」   森浩一「日本神話の考古学」   鳥越憲三郎「神々と天皇の間」   井上光貞「日本国家の起源」「神話から歴史へ(日本の歴史1)」   直木孝次郎 「日本神話と古代国家」   上田正昭・鎌田純一 「日本の神々 「先代旧事本紀」の復権」   上田正昭「日本人“魂”の起源」.pdf  金関恕+大阪府弥生文化博物館 「弥生文化の成立」   関裕二 諸著作   折口信夫の著作   原田常治「古代日本正史」   前田一武 「邪馬台国とは何か。 邪馬台国・富雄川流域説    樋口清之「逆・日本史 3」.pdf「逆・日本史 4」.pdf「日本古典の信憑性」(『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)    竹村公太郎「『地形から読み解く』日本史」.pdf「日本史の謎は『地形』で解ける」3部作.pdf   武光 誠「地図で読む「古事記」「日本書紀」.pdf   長野正孝「古代史の謎は『海路』で解ける」.pdfリンク)  富来隆「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-.pdf  松木武彦「日本の歴史一 列島創世記」.pdf  中沢新一「熊から王へ」.pdf「大阪アースダイバー.pdf

(2)村井康彦『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』.pdfこの書物が画期をなす理由・この書物を読むための基礎知識.pdf紹介記事

(3)嶋恵「古代の地形から『記紀』の謎を解く」.pdf →右図が表紙07

 ①下記のような立ち位置で著されたことにより、この書物もまた神話(が生まれた)時代を解明する上で画期をなすものとなりました。

   立ち位置:「神話や由緒には創作や事実を脚色したものが多く、事実がそのまま記されているわけではないのですが、全くの作り話というわけでもなく、何らかの事実を元に再編したり都合よく脚色したりして創られているようですので、その中に含まれている「事実の欠片」と思われるものを拾い出し、古代の地形地域の伝承地域資料に残されている事実や世界の歴史などと照らし合わせてみると、『納得できなかった教科書の歴史』とは全く違う歴史が納得できる形で表れてくるのです。」(14.10.17のブログより)

 ②この書物の基になり、続編たるブログが歴史探訪(09.4.13発進)

【7】在野歴史研究家の調査に基づく説、作家・小説家の小説・小論 

 松本清張「古代探求」.pdf清張通史② 空白の世紀  /司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 1」生きている出雲.pdf 「同左」長髄彦.pdf「城塞」.pdf高橋克彦「火怨 北の燿星ようせいアテルイ」ここにも「火怨」の抜粋あり)・「炎立つ」  /畠山紘明「秋田安東氏物語」  /黒岩重吾「古代史への旅」.pdf

 原田常治「古代日本正史」・「上代日本正史」/小椋一葉「消された覇王」<これらは、神社伝承の調査に立脚し、文献重視に偏重するアカデミズムへの批判の書でもある。>

【8】昔の話を参考にしている作品

 宮崎駿「となりのトトロ」「もののけ姫」(リンク)「千と千尋の神隠し「もののけ姫」のアシタカ〔ヒコ〕はナガスネヒコ、「千と千尋の神隠し」のハク(ニギハヤミコハクヌシ)はニギハヤヒノミコトをモデルにしているともいわれています。)  手塚治「火の鳥」「ブッダ」(「火の鳥」の黎明編では騎馬民族征服王朝説が採用されているともいわれています。 

【9】古史古伝   諸文献  示唆に富む資料・言葉   生駒ふるさとミュージアムの「歴史と文化入門講座」  生駒ふるさとミュージアムの「生駒の歴史と文化に関する講演会」等   「生駒谷の祭りと伝承」<抜粋>.pdf

【10】地図・遺跡こちら

【11】ラブリータウンいこま<09(H21)年10月15日号>テーマ : 長髄彦伝説

【12】文献比較 名称.pdf   文献比較 事件.pdf   文献比較 系図.pdf 

  

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正邪逆転の妄想(権威への服従・異端者の排除)    

(1)神武東征神話は、殺戮者を英雄とし、クニを奪われようとした人々、ずっと平和に暮らしていた先住の人々、盟友に裏切られる者、自分や愛すべきもの(自分が暮らすクニの人々)の尊厳を守ろうとする者、を賊とする正邪逆転の神話です。正邪逆転は、ナガスネヒコを賊として殺害したように邪としたものの排除をもたらします。この神話は現在に至るまで日本に生き続けて、知らず知らずのうちに一部の人々に正邪逆転を疑問に思わないよう感性に悪影響を与え、「正邪逆転の妄想」を植え付けてきました。(邪と悪の違い・・・悪は正に立ち返ることはないが、邪はイワレヒコや邪鬼のように、改心によって正に立ち返ることができる。)

 妄とは善悪の分別が欠けること、妄想とは誤った確信のことで、「正邪逆転の妄想」 とは、正を邪とし邪を正とする、誤った確信のことで、抑圧する者・侵略する者・支配する者・力の強い者を正とし、それらに抵抗する者を賊(反逆者)として邪とし排除せんとする妄想で、侵略戦争を正当化し、人々を侵略戦争に駆り立てる役割を果たしました。

(2)今日の日本では、「正邪逆転の妄想」 は、権威主義として多くの国民が受動し、それが「空気」になってしまっています。

(3)「正邪逆転の妄想」はアメリカ人の多くも囚われています。かかる状況をもたらしたものに「西部劇」がありました。これは、侵略する白人を正とし、抵抗する先住民を邪とする物語です。日本でも、50年代から60年代にかけてテレビで盛んに放映され、それを視聴した多くの児童少年が、「西部劇」 がもたらす「正邪逆転の妄想」 に囚われていきました。なお、共に1970年に公開されたソルジャー・ブルー小さな巨人を見た人は、この妄想から解放されていきました。

 しかし、アメリカには、現在もなお、多くの人々が「正邪逆転の妄想」に囚われてます。それを利用して、コロナ禍対策の無作為で支持を低下させているトランプ大統領は再選を果たそうと目論んでいます。力の強い者が正で、抵抗する者は邪ということを見える化して、その妄想を拡大することで支持を拡大しようというわけです(ご参照ミラー)。トランプの再選実現プランのあと1つは中国敵視政策の強化です。今のトランプのやり方をみていると、まさに、悪党最後の砦は、「偏狭ナショナリズム=排外主義」と「正邪逆転の妄想」と言えます。トランプは、「女性嫌悪(ミソジニー)」 の助けを借りて大統領に当選できた<ご参照> のですが、再選はそれだけでは実現不可能なので、ついに悪党最後の2つの砦の助けを借りようとしているのです。さすがの米国民もかかる者の再選を許すことはないだろうと思いますが・・・。

(4)「正邪逆転の妄想」を更に広めようという意図の有無にかかわらず、「正邪逆転の妄想」神話である神武東征(東遷)神話を更にひろめようという行政行為がおこなわれています・・・ご参照記事ミラーご参照動画ご参照動画

   上掲の動画では、イワレヒコが先住民を殺戮することが英雄的行為として垂れ流しされています。特に驚くべきことに、後者の動画は「神武東遷の道(=殺戮の道)は未来へと続いていくことでしょう」で結ばれています<>。また、前者の動画では、最後に<このコンテンツは「日本書紀」ゆかりの地を紹介する目的で制作したものです。学説、見解、等の相違についてはご了承下さい。>と明記されています。異なる学説・見解が複数あるにもかかわらず1つの学説・見解のみを税金を使って普及させようとするのは問題です。しかも、この動画は、奈良県民の先祖を外敵が殺戮することを英雄行為としたもので、奈良県民やその祖先を冒涜するもので、この動画は2重に悪質なものです。

  <>改ざんされる前の神話(生駒の神話)では、東遷の道(=殺戮の道)を歩んできたイワレヒコはナガスネヒコとの抗争の中で改心し、平和な(殺戮のない)クニづくりの道を歩む天皇として即位したことになっていますが、後者の動画は、天皇は殺戮の道を未来に向かって歩み続けるとしており、天皇を冒涜するものとなっています。

(5)この記事.jpgによれば、正邪逆転という非合理な神話である神武東征神話は、現代社会で非合理な身分制である天皇制を永続させるために必要とされている、ことになります。

(6)今日の正邪逆転の妄想の見える化

 ◯「炎上」に見る冷ややかさミラー

 〇世論や野党の批判を受けて決まった国民1人一律10万円の「特別定額給付金」について、テレビやネットでは「安倍さんを批判するならお金を受け取るな」などという言説も珍しくなかった。<この記事ミラーより>

 〇大川小学校の津波で亡くなった生徒の遺族「原因を追及し、全国の学校で教訓にしてもらわないと、子どもたちの命が無駄になる。そのためには賠償金を請求し、裁判を起こすしかなかったのですが、『子の命を金に換えるのか!』と誹謗中傷はすごかった。」

「生駒の神話」(という物語)はなぜつくられたのか。 

)縄文から弥生への移行の時代は、次の2つの点で日本列島に暮らす人々にとって根本的な転換期だった。

 ①これまでの「狩猟採集漁労」経済(神から授けられたものを取得するが、食べる分しか取得しないし、また、取得したものはすぐに食べないといけない、つまり備蓄・保存しない・できないこともあって平等に分配)から「農耕=水田耕作」経済(生産手段を用いて作ったものを収穫し、全員が生きていくのに必要な量以上に生産できる余剰生産物が生じる余地が生まれ、また、農耕作物は備蓄・保存が可能であることから不平等分配がもたらされる)へ。

 ②これまでの狩猟採集漁労経済では生産手段と不平等分配がなかったが、農耕=水田耕作経済では生産手段(生産に必要な土地や農具など)と不平等分配された備蓄物の所有化に伴い私有財産制が生まれた。それは、貧富の差=格差を生じさせ、「私有財産を多く持つ者」と「それを持たない者や多くは持てない者」という階級が生まれ、前者が後者を従属化する(支配・抑圧する)必要性を生じさせ国家(支配・抑圧機構のこと/従わせる力<強権国家の場合は武力>を属性に持つ/従わせる力や支配・抑圧をおこなう力やそれらの力を行使する主体が権力)が作られていった。 

)人々は、(1)のようなこれまで体験したことのない事態を共通理解し、これからどうすべきかを共有する必要に迫られた。そこで、「人間の集合的な潜在意識を形にしたもの」として成立したのが「生駒の神話」という物語であった。

 人類の歴史を描いた「サピエンス全史」や人類の行く末を占った「ホモ・デウス」を著した世界的に著名な歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「大多数の人にとって世界を理解するのは『物語』を通じてです。」と言っている。

 また、作家の村上春樹さんは、「村上春樹さん、村上文学を語る」というインタビュー記事のなかで「神話は人間の集合的な潜在意識を形にしたもの」と述べています。

 

ご参考・・・記紀の作為(神武東征神話の捏造)はなぜおこなわれたか?

 

 

 

 

すべての古道は、非日常(解放区)としての寺社をめざす   

(1)生駒の古道は、すべて、伊勢街道(伊勢神宮をめざす)または熊野街道(熊野大社をめざす)または宝山寺参詣道(宝山寺をめざす)です。

(2)<次の文>を読むと、江戸時代、一度に何百万人もの人々が、日常の封建的な束縛から解放されて自分を取り戻すための非日常(解放区)を得るために伊勢街道を伊勢神宮に向かったことがわかります。このように、人々は、非日常を得るために、伊勢街道と同様に、熊野街道を熊野大社に向かい、宝山寺参詣道を宝山寺に向かったのでしょう。そのために、現在では古道となっている街道・参詣道はつくられたのです。今でも、ところどころに古道標・石仏・茶屋跡などが残っている古道を歩くと解放的な気分に浸れるのはそのためなのでしょう。なお、民俗学では「黄泉(よみ)の国から帰ったイザナギが目を洗うと神々が生まれるとされたように、けがれが祓(はら)われると逆転して神になるという民間伝承は多い。寺院や神社も、けがれの吸引・浄化装置として働いてきました。」<この文書ミラーより/太字は引用者による>としています。日本では人々は古来、(=日常を生きる力)のカレ(=枯れてしまうこと)の時には、「ケのカレ=ケガレ(穢れ)」(古代日本では、彦や比古をビコともヒコともいうように、濁点があってもなくても同じでした)を祓はらう(生きる力を復元する)ための非日常(解放区)の場・時間(=ハレ)を寺社に求めたのです。(下に<注>

  <次の文> 「おかげでさ するりとな ぬけたとさ」。こう歌い踊りながら歩いたという。江戸時代の伊勢参りの集団、「おかげ参り」の一行である。親や主人に無断で抜け出した子どもや奉公人の「抜け参り」も多かった▲何度か発生した大規模なおかげ参りは一度に何百万という人数に達したという。着の身着のままで抜け出した人々はまず施(せ)行(ぎょう)を受ける印となるひしゃくを与えられ、食物や路銀(ろぎん)、寝場所などを道筋の家々から施されて伊勢へ向かった▲ちなみに勝海舟(かつかいしゅう)の父親・小吉(こきち)は少年時代に家出したおり、ひしゃくを持って家々を回り、1日で米麦5升と120文の銭を施されたと記している。庶民の旅へのあこがれと、その夢をかなえた江戸時代の旅文化には本当に驚かされる<この文.pdfより/太字は引用者による >

  <注>本来は民俗学の用語であった「ハレ」や「ケ」は、近年は、まちづくり用語や政治用語としても使用されています。前者の例⇒・・・・・立飛ホールディングス・・・・・は・・・・・JR立川駅北口に近接した国有地を落札し、複合施設「グリーンスプリングス」として、先のホテルや多機能ホール、オフィス、店舗、美術館、保育園などハレが共存し、子供から大人まで楽しめる街区を開発した・・・・・。<全文ミラー)>  後者の例⇒・・・・・安倍政権・・・・は・・・・・非常に大衆的な政権で・・・・・人気俳優と笑顔でカメラに納まる首相のインスタグラムや、一般市民と交流するノリのよい大臣ツイートなど、大衆に近づいているというアピールに熱心でした。政治家の威厳と品格はずいぶん薄れ・・・・・威厳をたもたねばならないという意識が弱まっていったかに見えます。それはハレの対称性があって魅力も緊張感もある世界の対極。価値が混沌とした、この時代の象徴に思えました・・・・・。<全文ミラー)>

  <参考文>・・・・・上野・湯島を中心とする地域に目を凝らすと、そこには「聖なる時間」のアウラ(引用者:=オーラ)が立ち上っていることに気付く。神田明神、湯島天神、湯島聖堂、ニコライ堂などの宗教施設が集まっており、近くにイスラム教のモスクもできている。宗教的な多様性はとりわけ都心北部に水際立っており、六本木や青山など流行の先端をゆく地域と鮮明な対照になっている・・・・・。<この記事ミラーより>⇒東京には、「聖なる時間」のオーラが立ち上っている地域と流行の先端をゆく地域の2つのハレがあるようです。

(3)近代になっても、寺社が人々にとって非日常を得られる場所として求められたことは変わらず、その求めに応じて、人々を寺社に向かわせるために、街道に替えて電車道がつくられました(この記事ミラーご参照 )。生駒トンネルを建造して大軌(大阪電気軌道/現近鉄奈良線)を開業させたのも、大阪方面から奈良の寺社と宝山寺に参詣者を運ぶためでした。だからこそ、大勢の犠牲者を出すような難工事と莫大な工事費の出費を伴う生駒トンネルの建造が断行されたのでしょう。生駒トンネル建造の困難さは、生駒から遠く離れた東京で暮らしていた宇野浩二の耳にまで届いており、彼は、生駒検定<全国版><問24>生駒ゆかりの諸群像小問(2)の文の中で「数年の歳月と巨額の金額をつひやし十数人の人の命を犠牲にして、やっと、トンネルを通じた」と述べています。かかるトンネル工事を断行させた力は、江戸時代に一度に何百万人もの人々を伊勢神宮へと向かわせたのと同じ力でした。

(4)今日では、人々の「自分(主体性)を取り戻す場(自分自身を理解する機会)」はさまざまとなっており、人類の歴史を描いた「サピエンス全史」や人類の行く末を占った「ホモ・デウス」を著した世界的に著名な歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、この記事ミラーの中で次にように言っています。ハラリ氏の言によれば、歩くこと(歩行)自体が、「自分(主体性)を取り戻す(自分自身を理解する)」行為ということになります。

   方法はたくさんあります。私自身は(1日2時間の)瞑想を実践していますが、心理士に合うとか、芸術に触れてもいい。山登りやハイキング)を、自分自身を理解する機会としても使えるでしょう。<太字・(注)は引用者による>

     ()・・・・・歩行は・・・・・思索と創造の原動力、推進力・・・・・なぜ近現代人は歩くと考えられるのだろう? ひとつには、ディストラクション(気を散らすもの・こと)という抵抗要素があるのではないか。・・・・・一方、歩行は祈りや信仰の発露でもある。・・・・・身体を使って一歩一歩移動していく真摯(しんし)さが祈りに通じる。・・・・・私たちは遠い祖先が立ち上がった時から、歩行熱にとりつかれている。<この文.jpgより抜粋(・・・・・は省略部分/太字は引用者による)>

(*)この記事は、生駒検定<全国版>問(13)歴史を見つめてきた暗峠(くらがりとうげ)小問⑥解説の資料としても掲載しています。また、生駒検定<全国版>問(26)生駒の歴史<続き>の生駒トンネルの着工・竣工、大軌開業のシーンのご参考としても掲載しています。

生駒神話の小辞典  


葦原中国(あしはらのなかつくに)

阿弖流為(アテルイ)Wikipedia高橋克彦「火怨 北の燿星ようせいアテルイ」 /「アテルイの悲劇」については、生駒の神話と現在の(2)をご参照 不屈の英雄 アテルイ ~古代東北の底力~

天降り(あまくだり)「天」と「海」は共に「あま」という言葉で同一視されていたので、「天あま降り(降臨)」は、「海あま降り(渡来)」のこと。

天津神天津族(あまつかみ・あまつぞく)⇒神々の総称いろいろへ 「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

「生駒」の語源・由来

生駒山地(生駒連峰)

生駒山生駒山のこと 古代日本における生駒山の不思議と謎新日本風土記 生駒山万葉神事語辞典より

生駒山越の峠道

伊耶那岐(イザナギ)・伊耶那美(イザナミ).pdf

出雲勢力出雲民族・出雲族・出雲神族) 出雲に渡来した渡来人で、出雲を本貫ほんがん(出身地)とする。播磨・摂津・近江・大和・紀州・越こし方面にも耕作地を拡大(出雲勢力が各地に進出したルートは、日本海から丹後を通って近江、近畿へ。もう一つは吉備経由で瀬戸内海へ)。先住民(縄文人)と協力・協同、住み分けて形成した国を「出雲の国」という。記紀神話では、彼らの長はスサノオ-大国主(農耕を広めたので、農耕地の神社で祀られること多し)。なお、協力・協同した先住民(縄文人)も出雲勢力という場合も多い。「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照.

   出雲族大和進出説⇒・・・・・村井康彦・国際日本文化研究センター名誉教授の古代出雲観・・・・・オオクニヌシを奉じる出雲族は磐座信仰を持ち、製鉄に長けた人々だった。彼らは邪馬台国を建て、大和を含む広範囲な版図が、いわば”出雲連合邪馬台国”になった、出雲系の神々も古くから大和に根付いていたが、それに取って代わったのが、にちに大和政権となる神武勢力の西からの侵攻で、これが国譲りの正体・・・・・大和朝廷の大和自生を否定し、外からやって来たとする見方は考古学会でも無視された。けれど、神武東征伝承はそれを認めている・・・・・。<朝日新聞(21.8.25)大阪版(夕刊)より/太字は引用者による>

出雲系の神々 神々の総称いろいろ

磐座(いわくら)祭祀の対象となった巨石

磐舟(いわふね)船底に、船の重心を低くして転覆を防ぐための重石おもしにする大きな石を敷き詰めていた船。重心が低くなると浸水したら沈没してしまうので気密性が高くて浸水しにくかったと考えられる。

内つ国(うちつくに)都のある国(大和国/倭やまと)/都に近い地方(畿内・近畿地方)/外国に対して日本の国  中洲(なかつくに・なかす・ながす)国ともいう。 

愛瀰詩えみし.pdf

縁起の法・・・前5世紀前後に唱えられたこの法に生駒の神話が影響を受けているとの指摘がある。

大嘗祭(おおなめさい・だいじょうさい)⇒ 「長髄彦とイワレヒコの戦い」「象徴天皇制」「大嘗祭」 ご参照

大八洲国(おおやしまぐに) 多くの島からなる国の意で、日本の異称。略称は大八洲八島八嶋

〇 「外部性」の力/(民俗学でいう)神/鬼

 

外部性「外部性」の力/(民俗学でいう)神/鬼

〇(神話の)神々の総称いろいろ日本の神の一覧(リンク)/ 日本の神々の特徴:〈人間をつくらない。既に人間のいる地上に降りてきて、人間のように暮らしはじめてしまう。そしていつの間にか天皇家の先祖の話とつながってしまう。神話と歴史のあいだに厳密な線が引けない。〉(日本語論より)

〇(民俗学の)「外部性」の力/(民俗学でいう)神/鬼

河内湾・河内潟・河内湖

記紀リテラシー・・・古事記は国内向けに天皇の正統性を訴えるために、日本書紀は外国向けに日本という国の正統性を主張するためにつくられたものですが、説得性を持たすために、人々の間に伝えられてきた神話や伝承を記紀をつくる目的にあうように変えて取り入れています。そこで、記紀を読む際には、元の内容がどうだったのを判断するリテラシー(適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現し、その真意を把握する力)が必須です。

〇(先史・古代の)京都(瀬戸内海と日本海の陸内港)

金の鵄とび(金鵄きんし

クサカ(日下・草香・孔舎衙/草香山(饒速日山)

日下くさかの直越(の道)直越(の)道(ただごえのみち)

狗奴国(くぬこく・くなのくに・くなこく)・・・邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征    狗奴国東遷説.pdf  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

国生み神話

国津神・国津族(くにつかみ・くにつぞく)⇒神々の総称いろいろ  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照   

国譲り

言語はなぜ生まれたか)⇒ 社会・言語・祭式・宗教はなぜ生まれたか

降臨天降り(あまくだり)へ

 

祭式はなぜ生まれたか)⇒社会・言語・祭式・宗教はなぜ生まれたか

「坂」

「殺戮」 

里山 

三貴子(さんきし) 天照大神・月読命(ツクヨミノミコト)・素戔嗚尊(スサノオノミコト)の三大神のこと。

式内社(しきないしゃ) 当時「官社」とされていた全国の神社一覧である、927年成立の延喜式神名帳に記載された「官社」の地位にあった神社。なお、式内社のうち、大社に列格されているものは式内大社と呼ばれる。  

社会はなぜ生まれたか)⇒ 社会・言語・祭式・宗教はなぜ生まれたか

蛇神(じゃしん・へびがみ) 

宗教はなぜ生まれたか)⇒社会・言語・祭式・宗教はなぜ生まれたか

象徴天皇制「長髄彦とイワレヒコの戦い」「象徴天皇制」「大嘗祭」 ご参照  

縄文のこと(縄文時代・縄文人・縄文文化)⇒縄文と弥生

新嘗祭(しんじょうさい・にいなめさい)その年の新穀・新酒をもって先祖の神々を祀ること。

神武東征 

住吉神社

正邪逆転の妄想

前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)・・・・・前の方の四角い土壇と、後方にある丸い土盛という、二つの部分を結合してできている。後方の丸い部分が墓室・・・・・死んだ首長(王)の遺体を後方の墳墓部に埋葬したあと、引き続いて古墳では新しい首長のお披露目式がおこなわれた。そのとき新首長は四角い土壇部をステージにして、墓のまわりに集まる民の前に、その神々しい姿を立ち現わせる。その演出を効果的にするために、この古墳の構造が案出された・・・・・。この記事.pdfより>

大嘗祭(だいじょうさい・おおなめさい)⇒ 「長髄彦とイワレヒコの戦い」「象徴天皇制」「大嘗祭」 ご参照

太陽信仰

高天原(たかまがはら) 天津神々のすむ天上界。天香具山で祭祀が行われ、神々は稲田をつくり、機織女たちは織殿に奉仕している。最高支配者は三貴子の一人天照大神と高御産巣日神(タカミムスビノカミ)の二神で、玉座である天の磐座(あまのいわくら)に座している。「高天原」が天上にあるという考えは本居宣長が広めたと言われているが、歴史的には、渡来して九州にいた集団(神話では天津神という)  高天原天上説は本居宣長の創作

直越(の)道(ただごえのみち)

高見の烽(とぶひ) 

哮峰(峯)(たけるのみね/たけるがみね)⇒生駒の神話ゆかりの古蹟 ご参照

近淡海.pdf(ちかつあわうみ) 

長弓寺 

天孫・天孫族(てんそん・てんそんぞく)⇒神々の総称いろいろへ  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照

天皇制

常世国(とこよのくに) 海の彼方の遥か遠くにある地、または世界。ここにどのような幻想を抱くかによって常世国の性格は変化する。これが常世国がいくつもの性格を兼ね備えている理由とされる。

飛火(とぶひ)が岡 

トミ(鳥見・登美・富)・トビ・富雄トミ神社<リンク>

鳥見霊畤(とみのれいじ) 天下を平定した神武天皇が鳥見山中に設けたとされる神々を祀る場のこと。霊畤の項もご参照。ここに鳥見霊畤があったとの伝承地としては、奈良県下では、王龍寺、鳥見旧跡、大倭神宮、奈良市石木町の登彌神社、天理市の大国見山、桜井市の鳥見山(麓・頂上)、宇陀市・榛原町の鳥見山、吉野村(萩原・上小野榛原・下小野榛原)の8カ所ある(前4つについては、生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照)。 

富雄丸山古墳

鳥見白庭山(とみはくていざん)⇒  饒速日 (ニギハヤヒ)へ 

鳥見山(とみやま・とりみやま)  桜井・宇陀両市の境と桜井市内の2か所にあり(地図.jpgご参照)、これらの付近がナガスネ彦とイワレ彦の2回目の戦い(トミの戦い、と名付けられるのはないか)の場所といえる。なお、西の鳥見山付近には外山(トビ)の地名が多くある(地図.jpgご参照)。

豊秋津洲(とよあきつしま・とよあきづしま・ とよあきずしま

豊葦原中国(とよあしはらなかつくに) 葦原中国(あしはらのなかつくに)と同じ。

 

長髄彦(ナガスネヒコ)

〇 なかつくに(中国・中つ国・中津国) 葦原中国(あしはらのなかつくに) ともいう。

中洲(なかつくに・なかす・ながす) 国の中心・中心の国・大和  内つ国(うちつくに)ともいう。

   南北2つの鳥見とみ(登美とみ)は中洲(大和)の入り口にあたる(この地図.jpgご参照)。この2つを抑えることで中洲(大和)を治めていた首長が鳥見(登美)彦・中洲根なかすね/ながすね(長髄ながすね/なかすね)彦であった。 

  なお、北の鳥見(登美)は長髄彦の本拠地であり、その守護神(金の鵄トビ)の発祥の地であり、南の鳥見(登美)は長髄彦軍とイワレヒコ軍が再度あいまみえ、金の鵄が飛来したところである。

奈良湖ならこ(大和湖)

新嘗祭(にいなめさい・しんじょうさい)その年の新穀・新酒をもって先祖の神々を祀ること。

〇 饒速日 (ニギハヤヒ)

〇 和魂 (わこん/にきたま・にぎたま・にきみたま・にぎみたま とも読む)

饒速日山クサカ(日下・草香・孔舎衙/草香山(饒速日山) 

西ノ京丘陵(京阪奈丘陵)

根の国(ねのくに) 高天原も異界であった根の国も元は葦原中国と水平の位置にあったのが、高天原を天上に置いたために根の国は地下にあるとされるようになった。その入口を黄泉の国と同じ黄泉平坂としている記述が『古事記』にあり、一般には死者の国である黄泉の国と同一視されるようになった。

〔鳥見とみ〕白庭山(はくていざん)⇒  饒速日 (ニギハヤヒ)へ   

◯ 祓戸大神(はらえどのおおかみ)「人の罪やけがれをはらい、清めるという神社のおはらいだが、ではその罪やけがれはどこへ行くのだろう。その祝詞(のりと)によれば、4柱の神が連携して川から海へと流し、最後は根の国という異界へ送り込むという。まず川から海へと罪やけがれを送り込むのが瀬織津姫(せおりつひめ)。海で受け取ってのみ込むのが速開都姫(はやあきつひめ)。息を吹いてそれらを根の国へと吹き飛ばす気吹戸主(いぶきどぬし)。根の国で罪やけがれを消滅させるのが速佐須良姫(はやさすらひめ)。合わせて祓(はらえ)戸大神(どのおおかみ)というそうだ。昔の日本人が海は異界とつながり、この世の罪やけがれを際限なくのみ込んで浄化してくれると考えていたことがよく分かる。」<この記事ミラーより>

日の本(ヒノモト)/日高見(ひだかみ)

卑弥呼.pdf(ヒミコ)

向三代(ひむかさんだい) 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨から、神武天皇を生む草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)までの三代(ホノニニギ・ホホデミ・ウガヤフキアヘズ)のこと。

日向勢力日向民族・日向族) 日向に渡来した渡来人。彼らの渡来を記紀神話では、天孫降臨という。そのため、天孫族ともいう。また、天津(天つ)族、天津(天つ)民族ともいう。津(つ)は「の」の意。記紀神話では、彼らの神を天津神(天つ神)といい、彼ら以外の神を国津神(国つ神)という。また、記紀神話では彼らの長はニニギ-イワレヒコ。

非戦・避戦の精神

ピュシス⇒  「ピュシス 」と「ロゴス」

琵琶湖.pdf

深野池(ふこうのいけ)⇒河内湾・河内潟・河内湖

平群の山(矢田丘陵)

蛇神(へびがみ・じゃしん)

 弁証法  弁証法を活用した「生駒の神話の復元」「日本人の形成プロセスの図式化」

真弓塚

〔富雄〕丸山古墳

まれびと(マレビト/稀人・客人)

尊・命(みこと) 『日本書紀』では、より尊い神を「尊」と言い、それ以外の神は、「命」と明確に区別している。ちなみに、素戔嗚尊(スサノオノミコト)は悪行を重ねたにもかかわらず「尊」である。

瑞穂(みずほ) 稲のこと 葦を指すこともあったとされる<内つ国のあった奈良盆地は、縄文時代以後、海湾→海水湖→塩分の残る湖と湿地の盆地→塩分の残る湿地にまず生い茂る葦原の湿地盆地→塩分の抜けた湿原盆地→水田(葦を刈り取った後の湿地は稲作に適した土地になった)と湿地の盆地→水田と乾地の盆地へと変化した。>  

三輪氏(みわうじ) 新撰姓氏録(P.250)には、「素佐能雄命六世孫大国主之後也(スサノオ6世孫の大国主の後裔なり)」と記されている。大三輪氏おおみわうじ・神氏みわうじ・大神氏おおみわうじとも表記する。

〇(生駒の)モリ.pdf

矢田丘陵(平群の山)

邪馬台国  邪馬〇国の名称・所在地論争に終止符を打つ論 邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征      「邪馬台国=富雄川流域」説

大和政権  邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征    

ヤマト.pdf  「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照   

  「日下の草香」「飛ぶ鳥の明日香」から「日下」「飛鳥」の読みができたように「倭人住む山門」から「倭」で「やまと」と読むようになった、との説あり。

大和湖やまとこ(奈良湖)

弥生のこと(弥生時代・弥生人・弥生文化)⇒縄文と弥生

弓矢 

黄泉の国(よみのくに) 死の国。ここの竈で煮炊きされた食べ物を一口でも食べると、現世には帰れない(黄泉戸喫〈よもつへぐい〉)。これは世界各地の死の国の言い伝えと一致する。黄泉平坂で現世と分けられている。根の国と異なるという考えや同じとする考え方がある。同じとする学者が、黄泉の国は地下にあるものと考えているが、必ずしも葦原中国に対して地下にあるわけではない。

黄泉平坂(よもつひらさか) 現世と黄泉の国とのあいだにある坂の名称。以前は自由に行き来できたようだが、伊邪那岐イザナギノミコトと伊邪那美イザナミノミコトの決別のとき、伊邪那岐によって封印された。道祖神はこの境を守るために祭られたのだともいわれる。 

霊畤(れいじ)「まつりのにわ」という意味。大嘗祭(おおなめさい・だいじょうさい/新天皇が即位後最初に行なう新嘗祭)を行う場所。大嘗祭・新嘗祭(にいなめさい/しんじょうさい)共、その年の新穀・新酒をもって先祖の神々を祀るという意味においては同じだが、大嘗祭は、皇位継承と重大な意義を持っていて、大嘗祭が行われて始めて皇位継承の名実共に備わるといわれ、一代一度の極めて重大な式典。

ロゴス⇒  「ピュシス 」と「ロゴス」

〇 和魂 (わこん/にきたま・にぎたま・にきみたま・にぎみたま とも読む)

ワンヘルス 日本には八百万(やおよろず)の神を信じる文化や、木や石に魂が宿るという考え方があり、人と動物と自然が共生する「里山」も守ってきたが、これらはワンヘルスとの親和性が高い。   

 

記紀の作為(神武東征神話の捏造)はなぜおこなわれたか?

 人類の歴史を描いた「サピエンス全史」や人類の行く末を占った「ホモ・デウス」を著した世界的に著名な歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「大多数の人にとって世界を理解するのは『物語』を通じてです。事実や統計に基づいて、ではありません」といっています<この記事ミラーの中で>。現在においてもそうですから、事実を記録した文書や統計等がない時代においては、なおさらそうであったでしょう。縄文から弥生への移行という激動の世界を理解するためにつくられていた「物語=神話」は、記紀の作者によって神武東征神話へと改竄されたのです。その理由は以下の通りです。

(答記紀には、二つのフィルターがかかっている .pdfご参照

(答「ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』によると、人間が『カリスマ』を生んでしまうのは現在の人類と同じホモ・サピエンスが身につけた認知的能力に由来するらしい。我らホモ・サピエンスは神話や守護神といった虚構を生み出し、共通の虚構を信じることで何百人、何千人という規模の協力を可能にした。」<毎日新聞(19.9.22)/今週の本棚 より>とのことであり、神武天皇をカリスマとし、金鵄はその守護神、ナガスネヒコは賊という虚構を生み出し、それらを共通の虚構として信じこませることで人民を統治するためであった。この虚構は、金鵄勲章なるものが端的に示しているように戦前の戦争期に大いに利用され、今日に至ってもその役割を維持しています。  

(答)のちの大和王権に連なる後期渡来人は、縄文人や前期渡来人が住む領域に侵入して国家づくりを進めた。それを正当化するためには、侵入される側の縄文人(ナガスネヒコが体現)は賊、前期渡来人(ニギハヤヒが体現)はその仲間、 侵入する側の後期渡来人(イワレヒコが体現)は解放者という虚構(改ざんされた神話) を人々に信じさせることが必要だったから、正邪を逆転させました(抑圧・侵略する者を正当・正統とし、それに抵抗する者を邪悪・賊とした)

(答大和王権やそれに連なる勢力は、母系制・双系氏族による生産経済(農耕・牧畜)を否定し、父系制・父権制氏族、更には部族による生産経済への移行を進め、ついには、氏族単位で田畑が占有・使用される土地制度を解体し、小さな地縁集団(戸)に土地を分配する班田収受を断行しながら、中央集権国家を形成していったことを正当化するために、スサノオ(日本に渡来して農耕・牧畜を紹介・開始し、「八岐大蛇=斐伊川」を「退治=治水」するなど、母系制・双系制氏族による生産を進めた初期農耕民を体現)を秩序破壊者とし、その秩序破壊者をアマテラス(母系制・双系制氏族による生産を否定しながら国家の形成・強化をめざした勢力を体現)が追放するという虚構(改ざんされた神話)を人々に信じさせることが必要だったから、正邪を逆転させました(スサノオは日本に水田耕作を紹介し広めた五穀豊穣の神であったのに乱暴狼藉の秩序破壊者とされました)が、同様に、正邪逆転は、縄文人(ナガスネヒコが体現/取得物は平等に分配する狩猟採集漁労経済)や前期渡来人(スサノオ、その縁者のニギハヤヒが体現/母系制・双系制氏族による収穫物は平等に分配する初期水田耕作経済)の経済を否定し、後期渡来人(イワレヒコ、その先祖のアマテラスが体現/父系制・父権制氏族、更には部族による、不平等分配をもたらす余剰生産を生じる水田耕作経済)の経済を正当化する上でも必要でした。

(答この文書.jpgに依拠して縄文から弥生への移行期の転換のプロセス(経済様式)を記すと次のようになります。

     ➀非定住・狩猟採集漁労→➁定住・狩猟採集漁労→③小規模(非灌漑)農耕→➃国家形成(人民の隷属化)・大規模(灌漑)農耕

    そして、「生駒の神話」の登場人物を各経済様式の指導者にあてはめると次のようになります。

      ➁ナガスネヒコ  ➂ニギハヤヒ(スサノオの縁者)  ➃イワレヒコ(アマテラスの子孫)

    以上のような、歴史的転換の中で、701年の大宝律令制定で確立された律令制国家をつくった勢力は、国家維持のために、国家成立を正当化する神話(物語)を必要とし<注>、「生駒の神話」を神武東征神話(記紀に記された神話=記紀神話、の1つ)へと改竄、つまり、国家を形成する者(イワレヒコ)を是とし、それに抵抗する者(ナガスネヒコ)を非とする神話へと作り変える必要があったのです。

     <注>「一つの民族がどのような経路をたどって他民族を支配するようになったかの説明ができたら、そのこと自体が(中略)支配を正当化することにつながる」(ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」より)

(答このページの<日本書紀は、編纂の時点で創作された政治小説>の記事をご参照

総括的な答)人民の協力を得る(従わせる)ために正邪逆転の妄想を人民に浸透させる必要があったため。

補足

 神武東征神話が流布していくことで、正邪逆転の妄想(暴力を行使するものに正当性があり、それに抵抗するものは賊)が人々に浸透していきました。この妄想は、現在の日本においても、武力行使なき内戦の一方の陣営の人々の頭脳を支配しています。そのため、記紀リテラシー(小辞典ご参照)により、「生駒の神話」を復元しなければならないのです。

 

 

 

 

 

 

天皇制    

現代用語に戻る

】天皇制はなぜ成立したか⇨歴史的真実を物語という形で伝えているのが神話であるが、生駒の神話によれば、それは、イワレ彦が「殺戮の無い平和なクニづくりをしていく」とのナガスネ彦との約束を果たすために天皇となったためである。

弁証法で読み解く「天皇制の起源」(弁証法の活用による、天皇制の起源を伝える生駒の神話の復元)ご参照

】【1】に記載されている「ナガスネ彦とイワレ彦との約束」、つまり、殺戮の無い平和なクニづくり」という約束(これを「天皇の約束」と呼べる)が果たされたとき、天皇制は歴史の舞台から退場する。従って、天皇制は廃止するものではなく、役割を終えて退場できる条件づくりを要請しているものである。

3】「天皇の約束」実現を妨害している者達との天皇自らの闘い⇒戦後天皇家の「生命・環境・人権よりも経済・軍事・統制を優先する」動きとの闘い

4】足利義満や織田信長さえも天皇を廃位したり、天皇に譲位させたりすることはできなかった。彼らといえども、「天皇の約束」を廃棄させたり、それを簒奪することは出来なかったためである。<自己を神格化せんとした信長さえ天皇になれなかった.pdfご参照>

「長髄彦とイワレヒコの戦い」「象徴天皇制」「大嘗祭」生駒の神話と天皇制

天皇制関連

 ◎<女>としての天皇

 ◎ ・・・・・推古は・・・・・期待に応える治世を馬子とととに実現した。群臣の間にあった男王へのこだわりは、彼女の長年の統治実績によって払拭されたのだる・・・・・以後、男女がひぼ同数即位する双系的継承が八世紀半ばまで続く・・・・・<書評「女帝の古代王権史」(毎日新聞 21.5.1)~Web掲載なし~より

 ◎天皇制の歴史ミラー

 ◎「これからの天皇制

  ①著書紹介・・・その1ミラー

  ②講座・・・第1回ミラー第2回ミラー /第3回ミラー /第4回ミラー第5回ミラー第6回ミラー

 ◎ 天皇と戸籍.jpg

 ◎ 令和問題

  ①令和フィーバー考⇒「大日本帝国時代に戻ったつもりですか」 “浮かれ た”メディアの罪.pdf美智子さまの「良妻賢母」像が隠した女性蔑視.pdf皇位継承を議論しないことに危機感.pdf非正規雇用と貧困 「平成の課題は何も解決していな い」.pdf

  ②元号を否定しない私が令和の使用を拒否するワケ.pdf

  ③民衆を苦しめ腐敗しきった政治に我慢できず田舎に帰るという「帰田賦」が、元号「令和」の大元の出典 .jpg元号「令和」は、憲法が権力者を縛る立憲主義を唱える高名な学者たる川岸令和氏と思いっきり名前がかぶっている.jpg /「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージミラー

  ④新元号を考える

 ◎ 元号について

 ②みずからの国家観、歴史観を為政者が元号に投影できる可能性も整えられた。<ご参照

 ①元号というものをどう考えればよいのか?・・・3人の識者の見解

 

なぜイワレヒコは天皇となり、ナガスネヒコは去ったのか?   

「生駒の神話」のストーリー(骨子)【解説付版】に戻る

〇縄文から弥生への移行は、縄文経済(狩猟採集漁労中心経済)から弥生経済(農耕中心経済)への移行であった。①前者は国家を不要としたが、後者は国家を成立させた。②弥生経済国家の長にとって最重要は「(豊作を祈念する)祭祀」であった。

〇イワレヒコは弥生人であり、国家の長となり得、「祭祀」を執り行うことができたが、ナガスネヒコは縄文人であり、国家の長とはなり得ず、「祭祀」を執り行うことは」できなかった。これが、イワレヒコは天皇となり、ナガスネヒコは去ったのか、の理由である。

〇なお、天照大神も卑弥呼・壱与も女性であったことで分かるように、「祭祀」は「女性性」が行うもので、折口信夫は「大嘗祭の天皇は神の前で女だ」としている。父権制のなかで天皇は男性が務める場合が多いが、「祭祀」のときは、男性天皇であっても「女性性」になるのである。

生駒の古道等の概念図のまとめ(一覧)  

(地図を印刷される場合、一旦保存してから印刷する方が周囲の余白が小さく印刷できるかも知れません。)

生駒山系(生駒山脈)

)概念図<善根寺越・日下越・古堤街道南道(一部)・八丁門越(一部)・宮山周辺.jpg>  添付写真.jpg

    別紙(くさか園地)  別図A.jpg(四道集中分岐付近の概念図)  別図B.jpg(宮山(石切神社元宮)周辺の概念図)   別図C.jpg (生駒駅発着の生駒山登山道)< 添付写真(その1).jpg / 添付写真(その2).jpg / 添付図「生駒駅~鷲尾山山道入口図」.jpg  / 添付図「鷲尾山頂上付近図」.jpg / 添付図「生駒縦走歩道~鷲尾山間の近道」/c(直線ルート)の「概念図」jpg  / 添付図 a・b(直線ルート)の「概念図」.jpg

)概念図<辻子谷越宝山寺参詣道主要部(石切~宝山寺)>  添付写真

)概念図<庄兵ヱ道北部(宝山寺~国道308号)/暗峠・宝山寺道(暗峠~宝山寺).jpg >  添付写真

)概念図<生駒山上~暗峠~「鳥見霊畤趾磐座」の碑~南生駒駅/庄兵ヱ道南部(国道308号~千光寺)>  添付写真

生駒山越直行の道

「朝日地藏・中倉さん~鷲尾山」をめぐる道の「概念図」

(*)参考・・・おしゃれな生駒山越の道.pdf

矢田丘陵後生駒山脈

  ①北部北半分・・・概念図<北部北半分(生駒白谷~市総合公園)>  添付写真

  ②北部南半分・・・矢田丘陵遊歩道のページに掲載のハイキングマップが案内役になリます。ただし、椚峠(県道との出合い)での出入り口がわかりにくいので「椚峠 案内」.pdfをご活用。  

  ③南部北半分・・・矢田丘陵遊歩道のページに掲載のハイキングマップ歩く・ならのページに掲載のルートマップの両方に記載があり、この両方が案内役になります。ただし、矢田峠付近は道が入り組んでいて迷いやすいので、矢田峠に設置の道標に記載の案内図.pdf(19.12現在、道標は倒れて横たわっている)をご活用。 

  ④南部南半分・・・歩く・ならのページに掲載のルートマップ(3分割されていますが、くっつけて1枚ものにすればぐっとわかりやすくなります)が案内役になります。ただし、松尾山・白石畑とその一帯は、道標があるところでもわかりにくく、道標がないところでは迷いやすいのので、松尾山・白石畑の概念図 北.jpg同 南.jpgこの南北2つを合わせた概念図.jpg添付写真.pdfと磁石を併用して道標代わりにしてください。

資 料      

(*)縄文と弥生  ミニ知識  アイヌ語辞典   地名由来辞典  ポリネシア語で解く日本の地名・・・  物語の作り方/物語のでき方

(36)日本列島をユーラシア大陸からみると(環日本海諸国図)

(35)中沢新一今日のミトロジー』 14<大穴持(オオナモチ)神の復活.pdf

(34)旅する神々ミラー  /

(33)神武天皇聖蹟調査報告(編集:文部省/1942年)<抜粋>  神武天皇聖蹟顕彰碑・伝承碑まとめ<リンク> 

(32)三角縁神獣鏡国産説.jpg

(31)『世界神話学入門』

(30)「邪馬台国=富雄川流域」説

(29)Q.草の舟での3万年前の航海(与那国島→西表島)再現実験(16.7.17~16.7.18)の失敗(ご参照)の原因は? A.3万年前の海と陸が今と同じだったはずだという思い込みが原因です(ご参照)。 

(28異国から訪れた旅人がもたらす風聞は、娯楽であり、情報でもあった

(27)「后と鶏」の生駒伝承(戦い忌避伝承)の真意は、長髄彦が堕落しないよう彼が神武天皇と戦う(殺戮する=命あるものを食べるため以外の目的で殺す)のを金の鵄(鳥)が止めたという生駒神話のそれと符合しています(生駒検定<全国版>問21 生駒伝承ご参照)。「神功皇后と鶏」の生駒伝承は「戦い忌避伝承」であり、生駒神話は「戦い忌避神話」と」いえます。

(26)J-SHIS(地震ハザードステーション)PhotoJ-SHIS Map生駒周辺.pdf<→右図(クリックで拡大)>を見ると、縄文~弥生時代に島・半島であった生駒と海であった大阪湾・奈良盆地・京都盆地との対比が明確です。

(25)海のない信州になぜ「御船祭り」があるのか⇒信州の御船祭りをご参照。

(24)ヒトと同様にクニも発生的(中心からではなく周縁から生成されていく)といえるのではないか 

(23)普遍的に人類の心をとらえる英雄物語の基本パターン(ジョーゼフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」が明示)⇒ご参照1.pdfご参照2

(22)現代人にもプログラムされている神話的思 

(21)佐保姫と竜田姫、そして登美彦

(20)古代地名検索システム

(19)この記事によればこの地図の櫛羅くじら(海抜約122m)付近まで海だったとのこと(地図の櫛羅表記の南西にある神社が海抜145mの鴨山口神社)。

(18)創られた建国神話と日本人の民族意識──記紀神話と出雲神話の矛盾から.pdf

(17)「山人」の「協同自助」的な生活に未来の可能性が見られる.pdf

(16)「国生み」は海洋民の伝承・「出雲」の「雲」に道教思想.jpg  考古学から神武を探る.pdf 

(15)トビ・トミ=ナガ=蛇神

(14)保津川の曳き舟再現

(13)倭人伝の国々をアイヌ語で読んでみると、「島」「森」「半島」「沼」「川」「水草」「葭あし」「谷・窪地」「河口」「滝」「港」という語が多用されていることが分かる⇒アイヌ語で読む倭の国々(リンク)ご参照(なお、ヤマタイ国は以下のよう)  

邪馬壱(邪馬臺)  やまい
(やまたい) 
yam-i(yam-tai)
      yam=栗 i=場所 tai=森 
豊かな栗の森のある国
       

(12「地名の改悪」は戦後日本の愚行.pdf  広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン

(11)富雄川と「富の小川」(リンク)  富雄駅は42(S16)年9月~53(S28)年4月に鵄邑(とびのむら)駅.jpgと改称されていた(当時の地図)。

(10)近代戦争以前の戦い : 例外だった白兵戦 戦場での負傷、大半は飛び道具.pdf

(9)『真説・古代史』補充編「神武東侵」 : Ⅳ(イワレヒコは恐らく登美毘古に勝てなかったのだ) 

(8)神武はついに長髄彦を倒せなかった 

(7)神武が来た道  神武東侵  古田史学の真髄(神武東侵について・天孫降臨について、など)

(6)アマテラスの原像.pdf   創られた建国神話と日本人の民族意識──記紀神話と出雲神話の矛盾から.pdf.pdf

(5)日本神話に見る日本文化考  左のワード版 

(4)絵古事記(リンク)

(3)記紀・万葉は古代のムラ段階から継承してきた少数民族的伝統 : 自然と共生し節度ある欲望を生きる少数民族の文化は、自然破壊と欲望の開放という近代化の行きつく荒廃に対する最後の防波堤.pdf 

(2)戦争は、人間の本能ではなく、日本では縄文時代にはなく、弥生時代から始まった 

(1)日本服飾史資料(リンク)勾玉三部作服飾(リンク).mht

(0)参考 : 日本古語大辞典(刀江書院)  日本書紀を語る講演会ミラー  旧版地図の入手方法(リンク)

 

「生駒の神話」のストーリー(骨子)<2020.4>

【解説付版】

(図版はクリックで拡大できます。)

 この文は2020.4に作成したもので、その後、「生駒の神話」のストーリー(骨子)は添削しております。添削後のそれについては、【解説付版】 をお読みください。

(1)海の向こうからやってきて日向(ひむか/現宮崎県)の国を治めていたイワレ彦は、九州を征したのち、内つ国(うちつくに/国の中心/生駒山の東側/現在の生駒~奈良盆地周辺)を征服せんと瀬戸内海を東進して難波(なにわ/現大阪平野/生駒の神話が生まれた縄文時代から弥生時代への移行期はまだ大部分は海)にいたり、そこより生駒山を越えようとした。

77_20200121170801(2)このとき、内つ国ではナガスネ彦が、イワレ彦より先に海の向こうから内つ国にやってきたニギハヤヒと共に、戦う(人間を殺す)ことのない平和なクニづくりをしており、狩猟採集漁労に生きるナガスネ彦たちは、武器でない狩猟用の弓矢しか持たなかったが、侵攻軍を撃退するため、雨のように矢を放った。侵攻軍を射抜くためではなく、前進してくる侵攻軍の眼前に天から降ってくる矢で鉄壁の壁をつくることで、侵攻を許さない意思を突きつけ、侵攻を阻むために。ナガスネ彦たちは、投石や落岩等も駆使して、侵攻軍を殺すことなく撃退した(クサカの戦い)。

 ただ、イワレ彦の兄である五瀬命(いつせのみこと)は、流れ矢に当たってひじを負傷したが、他者の幸せを祈ることで回復力を高めることをせず、逆に、他者に報復するとの執着心を捨てなかったことで体力を低下させ、重傷ではない傷が原因となってのちに死亡した。

(3)内つ国征服に執着する侵攻軍は、太陽に向かって進んだので撃退されたと思い、迂回して南東方向から太陽を背に内つ国を攻撃しようと考えた。

(4)侵攻軍は迂回ルートを進む途上、その先々で、食糧・寝所・休養所等を得るために、ナガスネ彦たちと同様にこれまで戦う(人間を殺す)ことのない世界に生きてきて戦うということなど知らなかった人々を一方的な攻撃や謀略によって殺戮(食べるため以外の目的で殺すこと)した。

(5)侵攻軍が殺戮しているという知らせを受けて怒りをたぎらせたナガスネ彦たちは、再び侵攻軍と会い見まえた時(トミの戦い)、進攻軍をせん滅(殺戮)せんとして、狩猟(食べるために動物の命をいただくこと)のために神から授けられた弓矢を武器に変え、彼らは軍隊に変質した。

78_20200121171601(6)ナガスネ彦軍が、侵攻軍をせん滅するため矢を一斉に放とうとしたまさにそのとき、ナガスネ彦たちのトーテム(守護神)である金の鵄(金鵄)が突然に飛来し、激烈な閃光を放ってナガスネ彦たちから弓矢を取り上げ全員を打ちのめして殺戮を阻止し、殺戮することで堕落することからナガスネ彦たちを守った。侵攻軍もまた、命の尊厳をないがしろにする者を許さない金の鵄の激烈な畏敬・畏怖の力で全員が打ちのめされひれ伏し改心した。金の鵄は、堕落していたイワレ彦たちをも救済したのである。

(7)そののち、ナガスネ彦・イワレ彦・ニギハヤヒの三者は話し合いをした。それの内容は次のようであった。

 ①ナガスネ彦は、殺戮者は殺害されるべきであり、それを実行するためであれば、自らの、殺戮を しない・必要ない・できない、という本然の性(非戦・避戦の精神)を失ってもやむを得ない、という考えを改めなかった。

 ②イワレ彦は、これまでの自らの殺戮を心から反省し、先住民の本然の性を我がものとして殺戮の無い平和なクニづくりをしていくとの不退転の決意を述べた。

 ③ニギハヤヒは、何度もナガスネ彦を説得したができず、涙を呑んでナガスネ彦を追放することを決意した。

(8)三者の話し合い後、ニギハヤヒは、平和なクニづくりを行うという約束の下に、殺戮を反省して改心したイワレ彦に内つ国を国譲りし、イワレ彦は神武天皇として即位でき、ニギハヤヒは即位した天皇に倭(わ・やまと/のちの日本)を治める魂(たま・モノ)を付与するモノノベ<魂モノの部>の祖となった。一方、金の鵄の守護がなければ殺戮することで堕落していたナガスネ彦は指導者の資格を失い内つ国を追われた。ニギハヤヒは本然の性を持ちながらこれを放棄したナガスネ彦ではなく、先住民の本然の性を我がものとしたイワレ彦に未来を切り開く希望を見出し、彼にそれを託したのである。

 ナガスネ彦は北方に去った。ニギハヤヒとその妻にしてナガスネ彦の妹であるミカシキヤ姫とその子のウマシマジをはじめ、ナガスネ彦を愛する人々に見守られて・・・・・。イワレ彦も高台から、家臣と共に、ナガスネ彦を姿が見えなくなってもいつまでも膝ま付き頭を垂れて見送った。イワレ彦ははっきりと理解していた。 これからの統治者になるものは、殺戮が「必要ない」「出来ない」人間ではなく、それを「決してやらない」 「許さない」人間だということを。ナガスネ彦は、自分がいなくても、そのような者が統治するクニづくりができるようにするため、自らは敢えて追放される状況・立場に身を置いたのだということを・・・・・。    

生駒三山系の城砦 

<生駒三山系とは、生駒四河川源流・分水嶺地帯(生駒の地理ご参照)に収れんしている

生駒山地・矢田丘陵・西之京丘陵のことである。>

各城砦の位置については、生駒の地理を把握してから、右の「城砦位置地図」をご参照ください。 

74_20200210010301生駒山地の城砦<北から順に>(mは標高/比高)

 西麓の平城たる交野(私部)城(現交野市私部6丁目)リンク>、 山中山城の天王畑城(現京田辺市天王高ヶ峯)リンク>・高山城(現生駒市高山町)(217/40)Wikipedia打田城(現京田辺市打田宮前)リンク>、西麓の丘城たる岡山城(現四條畷市岡山2丁目)(40/30)リンク>、山中の小松(山)城(現ゴルフクラブ四條畷内)リンクリンク>、東麓の田原谷入口東側の八丁岩にあった田原砦(現生駒市北田原町)山中の清滝城(場所不特定)リンクリンク、西麓の山城たる茶臼山砦(現四條畷市南野6丁目)(83/30)リンク>、東麓の田原谷の山城たる北田原城(現生駒市北田原町)(196/45)リンク>、 生駒山地北西枝にある飯盛山上の山城たる飯盛山城(現四條畷市市野)(314/260)西麓の山城たる野崎城(現大東市野崎2丁目)(114/65)Wikipediaリンク> 、 東麓の田原谷の丘城たる田原城(現四條畷市上田原八の坪)(180/30)Wikipediaリンク> 、山中の竜間砦(不詳)、東麓の生駒谷の、丘城たる田原(俵)口城(現生駒市俵口町)<長福寺の裏山に所在/リンク>・丘城たる菜畑城(現生駒市西菜畑町)(155/15)リンク>・東菜畑城(生駒市壱分町)(不詳/矢田丘陵西麓の生駒谷にあったかもしれない) ・萩原城(不詳)、東麓の平群谷の、丘城たる下垣内城(現平群町字古城 平群中央公園内)リンク(78/20)・丘城たる大和西宮城(現平群町西宮 平群中央公園内)(92/30)リンク> 、東側中腹の久安寺の山城たる赤坂城(現平群町久安寺)リンク>、 山中の、山城たる高安城(現平群町久安寺) (487/-)・山城たる信貴山城(現平群町信貴畑)(433/340)、高安山と信貴山の中間部の山城たるクズレ川南城(現平群町久安寺) リンク>、朝護孫子寺境内の丘城たる南畑城現平群町信貴畑) リンク>、西麓の恩智神社近くの山城たる恩智城(現八尾市恩智中町5丁目)(44/20)リンク>、南端部分の山城たる立野城(現三郷町城山台2丁目)リンク>、があった。~野崎・長福寺・菜畑・萩原・下垣内・西宮・久安寺・高安山・信貴山・朝護孫子寺・恩智神社・立野の位置については、このページ「生駒山越の(峠)道」と「平群の山(矢田丘陵)越の(峠)道」 の地図ご参照~

(1)と(2)の参考のリンク先

城郭放浪記(地図充実) /城跡探訪 (地図あり)古城盛衰記(地図あり) 奈良の城郭(地図ありもあり) 城跡めぐり備忘録 (地図あり) / ニッポン城めぐり (地図あり) /  お城の旅日記  

矢田丘陵の城砦<北から順に>(mは標高/比高)

 東麓の鳥見谷の丘城たる春日城(現奈良市二名4丁目)リンク>、東菜畑城(生駒市壱分町)(不詳/生駒山地東麓の生駒谷にあったかもしれない)、東麓の鳥見谷の丘城たる角山城(現奈良市中町)リンク>、萩野城(現生駒市萩の台)(不詳) 、東麓の鳥見谷の 丘城たる大和田城(80/10)(現奈良市大和田町字城山)リンク)、西麓の平群谷の、丘城たる上庄北城(現平群町上庄1丁目)(110/20)Wikipediaリンク>・丘城たる上庄南城(現平群町上庄3丁目)リンク> 、矢田城(現大和郡山市矢田町)(不詳) 、西麓の平群谷の山城たる三里みさと(194/110)(現平群町三里)リンクリンク>、東麓の鳥見谷の平城たる小泉城(現大和郡山市小泉町)リンク> 、西麓の平群谷の山城たる椿井城(現平群町椿井)(318/230)リンク>(竜田川をはさみ向こう側の生駒山地東麓の平群谷には丘城たる大和西宮城あり)、があった。 ~上庄・三里・大和小泉・椿井・西宮の位置については、このページ「生駒山越の(峠)道」と「平群の山(矢田丘陵)越の(峠)道」 の地図 ご参照~

 

西ノ京丘陵の南端には大和郡山城があった。

参考・・・兵庫県には1000城、大阪府には500城、京都府には1000城以上、滋賀県には1000城、奈良県には400城、和歌山県には600城、あったという。

長髄彦(ナガスネヒコ)と矢田丘陵   

(1)トミのナガスネヒコ<単に長髄彦(ナガスネヒコ/ナガスネビコ)または登美彦(トミヒコ/トミビコ)ともいう>について / 矢田丘陵のこと

 
(2)<生駒市誌より>矢田山脈(引用者:矢田丘陵ともいう)の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦 (ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。/ 長髄彦・・・・・は、その名の示す通り、長いすねの様な形―長背嶺―をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。長髄は長背嶺ながそねの転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷を以て鳥見白庭山(引用者:哮峰に天下った饒速日命が長髄彦に擁立されて遷座したところ)と推当し(引用者:白谷バス停近くに 「鳥見白庭山」の碑が建てられている)之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟(引用者:「金鵄発祥之處」の碑が建てられている)と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし。/(生駒市)北地区の上町一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。

   引用者:古跡(哮峰・「鳥見白庭山」の碑・「金鵄発祥之處」の碑 )の位置については、古跡地図をご参照。

(3)「(矢田丘陵の)神武峯(峰)<引用者注>は、神武天皇が長髄彦との戦いで進入した道筋と伝えられています」(生駒の古道)とのことも、矢田丘陵と長髄彦との関係の深さを今に伝えている。 

   <引用者注>神武峰については、生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照

生駒の地理、古道、古蹟、地名の位置がわかる地図、地形がわかる写真   

(いずれの図もクリックで拡大できます)

生駒の地理 

 42 生駒山が列島中心部にあることを示す地図(生駒検定<全国版><問5>不思議な旅する蝶解説より)

生駒の古道

生駒の神話ゆかりの古蹟

生駒三山系の城砦

地名の位置がわかる地図

 〇桧窪山・白谷・住吉神社・・・生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照    長弓寺・真弓塚・素盞嗚神社・・・長弓寺・真弓塚ご参照   天照山てんしょうやま旗立山はたたてやま・・・「生駒山の飛火が岡」の「高見の烽」 または生駒検定<問2>ご参照   (富雄川源流の)龍王山りゅうおうざん・・・生駒検定<問20>の解答・解説ご参照   トミ(鳥見)地域(現在の生駒市上町から奈良市石木町にかけての地域)・・・生駒検定<問20>の解答・解説ご参照  

 〇三国境・・・大和・河内・山城の三国境の謎(疑問)ご参照

(6)地形がわかる写真・図

 司馬遼太郎さんが日本のどこよりも好きだった摂河泉の大眺望・・・生駒山のことご参照

 〇生駒山上から見た大阪平野の夜景・・・生駒山のことご参照

 〇トンボの目線の高さから見た大阪の街並み ・・生駒山のことご参照

 〇作家の森見登美彦さんの故郷にある真弓塚のすぐ下から見た生駒山の遠景・・・劇場アニメ「ペンギン・ハイウェイ」の場面・美術設定等 VS その実物写真ご参照

 〇貝原益軒が「桃源郷」と讃えた(生駒検定<問18>生駒に「桃源郷」があった!ご参照)景観の面影が今も残っており優れた景観形成のモデル<となっている北田原地区の写真・・・生駒検定<問18>の解答・解説ご参照

 〇般若窟ミラー

参考資料

 〇瀬戸内海-大阪湾ー生駒山

    ・・・・・瀬戸内海・・・・・内海が育む精神性・・・・・似たような形の地中海は、大陸と大陸の間(メディ)にある海。瞑想(めいそう)(メディテーション)という言葉にどこか通じる・・・・・日本にもし瀬戸内海がなくて、この海に沈んだ平家の悲劇がなかったら、いまと同じ日本文化の成熟があっただろうか・・・・・<この記事ミラーより>

 〇日本列島をユーラシア大陸からみると : 環日本海諸国図Ⅰ ・ 環日本海諸国図Ⅱ 奈良盆地歴史地理データベース

 〇生駒の散歩道 北生駒 神話コース(リンク)/ 富雄街道の歴史.pdf

 〇遺蹟案内図(『生駒市史』より).pdf神武東征説明図(『生駒市史』より).pdf記紀神話の舞台となった富雄川流域の遺蹟とその地図(リンク)時代別生駒の遺跡

 〇東アジアにおける難波宮と古代難波の国際的性格に関する総合研究より⇒河内湖周辺の渡来人関連遺跡等.pdf古代の難波と住吉.pdf

 

 

 

 

饒速日(ニギハヤヒ)

wikipedia

生駒市誌は、生駒の神話の主人公のナガスネヒコ矢田丘陵(矢田山脈・矢田山系)饒速日のことを次のように記しています(一部修正して引用)。  

 矢田山脈の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦 (ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。/ 長髄彦は、その名の示す通り、長いすねの様な形長背嶺(ながそね)をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。 / 長髄は長背嶺の転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷(現在は生駒市の白庭台住宅地になっている)<※1>を以て鳥見白庭山とみはくていざん※2と推当し之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし。/生駒市上町(引用者 : この上町の一部が白庭台住宅地となった)一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。

 <※1> 引用者:白谷の位置は、この地図ご参照。  白谷バス停(付近一帯が白谷)・「鳥見白庭山 」の碑・哮峰・「金鵄発祥の處」の碑(「トビ山」に立つ)の位置は、このページの「古蹟地図」ご参照。

 <※2>引用者 : 鳥見白庭庭は、哮峰いかるがだけ・いかるがのみね(現岩船神社の少し北にあり)に天下った饒速日命長髄彦に擁立されて遷座した(移り住んだ)ところ。神話で「天あま下った」は歴史的には「(海あまを南に下って)渡来した」こと(ご参照)。  

この記事によれば、

  ①白庭山は鳥見谷の上かみある。

  ②南田原や高山や上村かみむらを鳥見谷と称したとある。また、この記事によれば、住吉神社も白庭山の候補地とある。従って、鳥見白庭山は、住吉神社~白谷の地域、つまり生駒四河川の水源・分水嶺地帯生駒の地理ご参照)にあったとできるのではないか。 

〇リンク・・・饒速日(ニギハヤヒ)とは?(まとめ)   折口信夫のニギハヤヒ 

可美真手命(ウマシマデのミコト)が饒速日命を祀ったとも、その両者が祀られているとも、饒速日命が降臨したとも言い伝えられている石切神社の元宮がある宮山の位置とそこへの行き方については、この概念図をご参照 

饒速日=ニギ ハヤ ヒ=和(ニギとも読む/和合) 速 太陽=速やかに 争いを治める太陽神=和魂を付与する神 ともいえる。

〇「先代旧事紀」に、ニギハヤヒは三十二神を伴って河内に降り立ったとあることから、32の部族の連合国家の指導者であったとすることもできる。

 

平群の山越(矢田丘陵越)の道   

矢田丘陵は、記紀・万葉集では「平群の山」、また、以前は「後生駒山脈」とも

呼ばれていました。

平群の山越やまごえは、生駒山地と矢田丘陵の間を流れる竜田川流域(その上流は生駒谷、下流は平群谷という/この流域を通るのが清滝街道)と、矢田丘陵と西之京丘陵の間を流れる富雄川流域(鳥見谷)を結ぶ峠道です(生駒の地理ご参照)。

 

)平群の山越(矢田丘陵越)の道の定説はありませんが、北から記すと次のようになるでしょう。

   <生駒山地と矢田丘陵の峠道はだいたいこのあたりを通っていただろうということを示す地図は生駒の古道を示す地図 ご参照 

 〇 白谷しらたに越・・・これだけは、竜田川流域と富雄川流域を結ぶ道ではなく、天野川源流域の田原谷の南部(西部が現四条畷上田原、東部が現生駒市南田原)と富雄川流域を結ぶ道。白谷(現生駒市上町・白庭台)を越える。なお、白谷は鳥見白庭山とみはくていざんに比定されており、白庭台はそれに由来するといわれている。 天野川源流域・富雄川・白谷の記載ある地図

 〇 王龍寺越・・・生駒谷の小明~王龍寺西村(長弓の近く)

 〇 椚くぬぎ越・・・生駒谷の菜畑の傍示の辻(現菜畑駅東側) ~椚峠(標高 171m/データベース)~三碓の上鳥見かみつとみ橋(本来は中鳥見橋にすべき。富雄町史では「中鳥見庄は三碓」と明記されている)

 岩鼻いわのはな越・・・生駒谷の一分~神武峰(標高 259m)<生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照>の北側~黒谷・中村(現奈良市中町) この道は現在、矢田丘陵遊歩道(矢田丘陵の当該記事ご参照)の途中下山ルート(西側は生駒市福祉センター方面、東側は奈良市帝塚山住宅地方面)となっています。前者を示す道標の写真.jpg後者を示す道標の写真.jpg

 〇 榁木むろのき・・・生駒谷の小瀬~榁木峠(標高 268m)~砂茶屋の下鳥見しもつとみ

 〇 金剛山寺(矢田寺)越(矢田越)・・・複数あった。暗越をして生駒谷に入り、乙田から矢田峠を越えて矢田寺へ下る。榁木峠を越え、現在のこどもの森辺りを大回りして矢田寺へ。平群谷の元山上口から矢田峠を越えて矢田寺へ下る。 矢田寺からは大和郡山へ下る道があった。

 〇 松尾越・・・十三越・おうと越・立石越・信貴越などの生駒越をして平群谷に入り、椿井写真・平等寺から白石畑を経て松尾寺へ。松尾寺からは、矢田寺や大和小泉に下る道vがあった・ 

平群の山越(矢田丘陵越)の道は、生駒山越(いこまやまごえ)の(峠)道とつながっていました。

    なお、山越の道は川沿の街道に合流していましたが、竜田川の全流域(源流域から大和川に合流するまで/生駒谷・平群谷全域)に沿った街道を清滝街道または磐船街道といい、富雄川に沿った(鳥見谷の) 街道には、上津鳥見路かみつとみじ古堤ふるづつみ街道などがありました(生駒の古道を示す地図のページに記載の「生駒山 直越」と「矢田丘陵越」 の地図ご参照)。

 

(*)参考:生駒山のこと

 

谷川健一さんの説・・・「草香・日下」「日の下」「直越」「草香山(饒速日山)」

谷川健一「白鳥伝説」より引用

凡例:(上P.17)=「小学館ライブラリー版」上巻の17ページ  

文中の太字部分と小文字のふりがなは引用者による。( )内のふりがなは原文の通り。 

太陽の昇る難波、その東の日下(上P.49)

 勝井(純)は「日下の直越」を実地に踏査している(下に引用者注)。それによると、日下の直越の路は現在の東大敗市善根寺の春日神社の前を東北にむかって、尊上山の中腹を斜めにのぽり、その頂上から東南に走る低い尾根伝いの道をたどる。

 そこから八幡山の頂上である旧神社のあたりを通って、恵比須山から厄山にいたる。厄山から国見山方面に通じている道に饒速日山(引用者:ヤマレコさんによればここ)がある。それは生駒山の北にそばだっていて、その頂上には、底無しの井戸と称するものが八つある。その饒速日山から生駒市の俵口にいたる道路を、現地では直越ただごえ/じきごえと呼んでいる。

 饒速日山は一名草香山ともいわれている。先述の万葉歌の中で、草香山が重要な意味をもつのは、そこが太陽信仰の対象となっていたためである。饒速日山は神体山として礼拝されていた。もとは社殿もなかった。おそらくそれは天照御魂(あまてるみたま)神社の原型であった。つまり草香山にのばる太陽が礼拝されていたのではないか。

 勝井によれば(下に引用者注)、のちにニギハヤヒを祀る上ノ社が饒速日山の頂上にもうけられ、それに対して、奈良県生駒郡富雄村(現在生駒市上町)の長弓寺にある登弥神社と、東大阪市の石切剣箭(つるぎや)神社を下ノ社と呼んだのだという。そのあと、物部氏がほろぶと、山上のニギハヤヒの神霊はそれぞれ下ノ社に移されたのだという。

 饒速日山に源を発し、西北に流れて、善根寺の車谷を下って、春日神社の付近を通り、旧の日下池にそそぐ川を今日でも「日の川」と称している。このことは、「日の御前」という呼称とともに、そこが太陽信仰とふかい関連をもつことを如実に示している。

       (引用者注)勝井純『神武天皇御東遷聖蹟考』をご参照

谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」(2008)より引用

 『日本書紀』で「草香」という字を書いたのを、『古事記』ではその字を使わないで「日下」と書いて「くさか」と読ませたことに、これまで何人もの学者が思いをめぐらせてまいりました。・・・・・たとえば「飛ぶ鳥」と書きまして、「飛鳥」を「あすか」と読ませることはご存知だと思います。それからまた「春の日」と書いて「かすが」と読ませる。これは、「飛ぶ鳥の」というのは「あすか」の枕詞であったことから、「飛ぶ鳥」と書いて「あすか」と読ませるようになった。これらと同様に、「くさか」の枕詞が「日の下」であったと推測できるのではないかと思われます。読み方は、「日の下の草香」は「ひのもとのくさか」が正しい読み方です。・・・・・「日の下(ヒノモト)」という言葉は非常に古くからあり、「日の下の草香」という地名が存在した。そして「草香」を「日下」と書いて「くさか」と読ませるようになった。「日の下(ヒノモト)という言葉は、物部氏の主力が畿内へ移動した二世紀頃からそろそろ始まったのではないかと思うわけです。

谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」(2008)より引用

 いまの東大阪市の「日下」といいますと、生駒山脈の西側にあります。

 『万葉集』の巻六には、草香山を通るときに、神社忌寸老麿(かみこそのいみきおゆまろ)という人が読んだつぎのような歌があります。

    「直越(ただごえ)のこの道にてし押し照るや難波の海と名づけけらしも」

 「直越」とは、「草香の直越」と言われていまして、大和から河内へ抜ける道です。大和から難波へ越える直越の道を草香山までのぼってみると、難波潟に日の光が照り付けているのが見える。「この道にてし」の「し」は強意で、この道でこそ、押し照る難波の海と名づけた理由がよくわかる、という歌であります。

  これだけではたんなる叙景の歌にすぎないように思われますが、それ以上の意味が含まれています。「直越」というのは『古事記』で雄略帝が「日下の直越の道より河内に幸行でましき」と歌ったその「日下の直越」のことです。大和から河内に出るのはこの道が一番近道であったので、「直越の道」と呼ばれ、その道の頂上が草香山と称せられていたのです。

  現在も、生駒山地のその山を「草香山」と申します。それは、いまの東大阪市の「日下町」の東側にありまして、「饒速日山」とも申します。その「草香」の「直越」と申すところの道にやってきてはじめて、「押し照るや難波の海」と名づけられた意味がわかったというわけです。要するに、「草香山」つまり饒速日山を過ぎるときに、その難波潟をみながら詠んだ歌なのであります。

生駒山のこと

生駒山地(連峰/山脈)についてはこちら 

(地図・写真はクリックで拡大できます

生駒山の生駒全体の地形におけるその位置とそれをとりまく地理環境・・・生駒の地理ご参照

生駒山は、生駒山地(連峰/山脈)の全部または部分をいう場合、その主峰wikipedia) とその近くの峰々をいう場合、標高642mの主峰のみをいう場合、の3通りがありますが、このサイトでは、主に生駒市域の生駒山地のことについて記載します。> 

以下、<問〇〇>とあるのは、生駒検定<全国版>の問の番号です。

古来、生駒山は、膽駒山、射駒山 、伊駒山 、伊古麻山 、伊故麻山 、生馬山 、往馬山などさまざまな字があてられてきたが、語源は、縄文語(現アイヌ語)で「鹿がそこにいる」山・・・<問17>「生駒」の語源・由来ご参考

◎日本神話でイザナギ・イザナギの男女2神がつくった豊秋津洲とよあきつしまは生駒山のこと・・・<問15>神話の里(その2)~「国生み神話」の舞台~ ご参照 

◎生駒山は、生駒を舞台とする日本神話(生駒の神話)の舞台・・・<問1>神話の里(その1)~生駒神話(生駒を舞台とする日本神話)~  

   神日本磐余彦天皇カムヤマトイハレヒコノスメラミコト(神武天皇)「塩土の翁しおつちのおじに聞くと『東の方(引用者注 : 生駒山の向こう側)によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟いわふねに乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日にぎはやひというものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる。」(日本書紀<現代語訳> より)

05

生駒山のてっぺんから見た大阪平野の夜景(→右写真<クリックで拡大/以下同じ> )<この夜景が広がるところ、かつては海原であった>

司馬遼太郎「城塞」生駒山記述部分抜粋.pdfより

29   司馬遼太郎さんが日本のどこよりも好きだった摂河泉の大眺望(→右写真)<この平野が広がるところかつては海原であり、この写真を撮ったあたりで、生駒山に向かって進攻してくるイワレヒコ軍をナガスネヒコは睥睨へいげいしていたのではないか。>  この写真は、この阪奈道路の地図に「摂河泉の眺望」と印字したところ(その写真)で撮影(ここは車を止める場所がなく、撮影チャンスは後続車両がない一瞬ですが、近くに徒歩道があるので、それを利用すればゆっくりと撮影できます)

76maid-in-osaka_20200108182502 ◎トンボの目線の高さから見た大阪の街並み<出典:この記事.jpg(→右図)

◎生駒山の謎・・・<問2>謎多き山「生駒山」<解説に、古代日本における生駒山の不思議と謎あり>ご参照

◎生駒山地のほぼ中央を東西に横切るのが暗越・・・<問13>歴史を見つめてきた暗峠」ご参照

生駒山地を越えて河内(現大阪府)と生駒谷・平群谷を結んでいたのが生駒山越の峠道 、そのいくつかと結ばれていたのが、矢田丘陵を越えて生駒谷・平群谷と鳥見谷を結んでいた平群の山越(矢田丘陵越)の道

◎作品中の生駒山

 ・古来、生駒山は人々から愛され、和歌や俳句に詠まれてきた・・・<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。 ご参照   うたまくら ゆかし生駒山暗がりの道の句とふみ <共に、生駒市誌より>

 ・矢田丘陵(平群の山)とセットで詠まれることもあった・・・生駒山と矢田丘陵(記紀・万葉では平群の山)は、古事記<雄略記>に登場 ご参照

 ・生駒山を舞台とする小説・・・<1919(T8).1.1・1.15>「赤い鳥」(1・2月号)にて、生駒山も舞台とする、芥川龍之介作「犬と笛」が発表される・・<問23>短編小説「犬と笛」ご参照

 ・司馬遼太郎「城塞」生駒山記述部分抜粋.pdf

 ・暗峠にかかる小説や俳句については、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」ご参照

ナガスネヒコ、東征軍が河内湾に侵入したことをいち早く知ることができた。古代、生駒山には高見の烽(とぶひ)が設置されていた。生駒山には、南北朝時代に見張り場があった。 生駒山には、江戸時代から近代に至るまで「旗振山はたふりやま(米相場を旗を振って伝達するための中継点の山)」があった。今日でも、生駒山上にはテレビ塔が林立している。⇒このように、古代より、生駒山は、遠近の情報を収集・伝達するステーションでもありました。そうであった理由は、上掲の2つの写真を見ればわかります。 

生駒出身の作家で、生駒北部のまちを舞台にした小説「ペンギン・ハイウェイ」(<問22>小説「ペンギン・ハイウェイ」 ご参照)の作者の森見登美彦さんは生駒山をこのように語っています⇒その1その2「太陽と乙女」<抜粋>より)

 森見さんは、浪人時代、大阪の予備校(難波の代々木ゼミナール)からの帰りに生駒山を歩き回ったそうです(ご参照.pdf照)。   森見さんのおすすめスポットは、古代の雰囲気が漂う生駒山と大和文華館だそうです(ご参照.pdf)<司馬遼太郎さんの「城塞」.pdfの冒頭部分を読むと、生駒山が古代の雰囲気を漂わせている理由がわかります>。

40_20200912183601  右の写真は、森見さんが育った場所にある真弓塚(西之京丘陵の一角にある/この地図ご参照)のすぐ下から見た生駒山です(劇場アニメ「ペンギン・ハイウェイ」の場面・美術設定等 VS その実物写真より引用し、文を追記)。森見さんはここから見た生駒山を見るのが好きで、写真引用元にもあるように、森見さんの小説ペンギン・ハイウェイを原作とするアニメ映画「ペンギン・ハイウェイ」の舞台背景となっています。  

◎生駒山東麓に伝わる伝承・・・<問21>生駒伝承(解説に、生駒伝承「神功皇后と鶏」と「生駒の産土神の鶏追とりお)掲載 )ご参照

◎生駒山東稜ゆかりの歴史群像  

  ・蘇我入鹿は645年の乙巳の変で倒されたが、その前々々年の642年に入鹿は山背大兄王やましろのおおえのおうを攻撃し、王は生駒山中に逃げた・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(13)ご参照。なお、山背大兄王が隠れたとされる生駒山は実は矢田丘陵のこと、との説があります(ご参照ミラー)。  

  ・行基・・・<問3>生駒を愛し今も生駒に眠る偉人ご参照

  ・忍性・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像(8)ご参照 

◎生駒山東稜の宝山寺

  ・伝承によれば、655年、役行者が、山背大兄王が逃げ込んだあたりの生駒山中を修験道場とし、ここに都史陀山大聖無動寺としださんだいしょうむどうじを建て、時が過ぎ、1678に湛海律師がこのお寺を再興して、歓喜天を祀り、寺名を宝山寺と改名した。 

  ・1918(T7)年>泉鏡花作「紫障子」発表。この作品の中で、宝山寺の浴油供よくゆくが登場・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(7)ご参照

  ・<1951(S26).9~1952(S27).11> 宇野浩二作「芥川龍之介」が「文学界」に連載された。1953(S28).5 刊行。この作品によると、芥川龍之介が、直木三十五、宇野浩二と共に宝山寺方面に遊行した・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(2)ご参照

  ・<1981(S56). 8>宝山寺も舞台とする、映画「男はつらいよ(第27作)~浪花の恋の寅次郎~」公開・・・<問10>「男はつらいよ」生駒の巻ご参照

  ・作家の高橋和巳は宝山寺門前の旅館を常(定)宿としていた・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(15)ご参照

  ・宝山寺参詣道

◎生駒山には、日本初のケーブルがあり、その終点にある生駒山上遊園地には日本最古の飛行塔がある・・・<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(1)-③ご参照

◎生駒山上遊園地や宝山寺はロケ地になっている・・・生駒市のロケ地ご参照

◎生駒山の自然

  ・二ホンリスが生息・・・<問6>息づく野生動物ご参照

  ・不思議な「旅する蝶」アサギマダラが、旅の途中で休息する・・・<問5>不思議な「旅する蝶」ご参照

◎<1930年代前半>ブルーノ・タウトが、生駒山嶺小都市計画を立案・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(1)ご参照

生駒山は火山か?

◎生駒山をくぐるトンネル・・・<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古 の(1)の ⑨ ご参照

◎生駒山上遊園地(スカイランドいこま )の駐車場はかつて「生駒山滑空場」だった・・・ご参照<リンク>  

記紀(古事記・日本書紀)に記された生駒山(既述以外)

 ・夏五月一日、大空に竜に乗った者が現われ、顔かたちは唐の人に似ていた。油を塗った青い絹で作られた笠をつけ、葛城山の方から、生駒山の方角に空を馳せて隠れた。正午頃に住吉の松嶺まつのみねの上から、西に向かって馳せ去った。<日本書紀 斉明紀>

◎古書に記された生駒山

 ・「住吉大社神代記」(成立期不明)の「胆駒神南備山いこまかんなびやま本紀」・・・「(生駒山の)四至(境界)、東限胆駒イコマ川(竜田川)、竜田公田(不詳)。南限賀志支利カシキリ坂(不詳)、山門ヤマト川(大和川)、白木シラキ坂(不詳)、江比須エビス「白鳥伝説」の上巻P.210をご参照)墓。西限母木オモノキ里公田(枚岡神社恩地神社あたり)、鳥坂トサカ里(高井田)。北限饒速日山(不詳)」

 ・「続日本紀」(794年完成)・・・平城京から見て生駒山は、東の春日山、北の奈良山と共に、西の鎮めの山として「三山鎮を作」す。  

◎ご参考・・・ 生駒山の位相トポロジー.pdf <リンク> / <問26>生駒の歴史  / 生駒山上遊園地・生駒山 トリビア

◎現在生駒山麓公園のあるところには、かつて、いこまテックという遊園地があった(Wikipediaご参照)。

この記事大阪電気軌道デボ1形電車のwikipedia)に生駒山頂上付近の近鉄奈良線の新生駒トンネルの上辺りのとある広場にデボ1形が放置されている」とある「とある広場」は、ここです。なお、定期的に塗装塗り替えされているようで「放置されている」というより保存されているようです。ただ、このような尾根の上のどこにあるかわからないような、一部の熱心な鉄道マニアが探しながらしかこない場所(楽々亭という名の今は無人になっているらしき保養所のような建物に付随する小さな遊園地のような元広場)に保存されている理由は不明(謎)となっています。「とある広場」の位置は、このページに記載の別図C.jpg生駒駅発着の生駒山登山道)の<注14>(添付写真(その2).jpg)のところです。

生駒山上遊園地からの夜景が、「クールジャパンアワード2019」に選ばれた・・・報道記事.jpg報道記事ミラー報道記事ミラー報道記事ミラーお知らせ記事ミラー   関連・・・生駒山上遊園地公式サイト「絶景ポイントミラー

二月堂から眺める生駒山ミラー